ヨーゼフ・メンゲレ
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ヨーゼフ・メンゲレ (Josef Mengele, 1911年3月16日 - 1979年2月7日) はアウシュヴィッツでガス室に送る囚人を選別したり、囚人に学術的価値の曖昧な実験を行ったナチの医師・医学者。人種淘汰、人種改良、人種の純潔、アーリア化を唱えるナチス人種理論の信奉者。愛称のBeppoは、Josefのイタリア語読みGiuseppeに由来する。
[編集] 生い立ち及び経歴
メンゲレは南独の裕福な機械工場経営者カール・メンゲレ(1881年 - 1959年)とその妻ワルブルガ(? - 1946年)の3人の息子の内の長男として生まれた。弟にカール・メンゲレ(1912年 - 1949年)およびアロイス・メンゲレ(1914年 - 1974年)がいた。ミュンヘン、ウィーン、ボンの各大学で遺伝学、医学、人類学を研究し、1935年に、下顎構造の人種間の差に関する研究で人類学の博士号(Ph.D)を得た。1937年、フランクフルト大学では指導教官オトマール・フォン・フェアシュアー(Otmar von Verschür)の下で助手として遺伝生物学と民族衛生学を研究した。1938年には「口唇口蓋裂の家系調査」の研究で医学博士号(M.D.)を取得した。
1931年、20歳のときにワイマール共和国に反対する右翼政治団体である鉄兜団(de)に加わる。同団体は、1933年のナチスの政権獲得後、ナチス突撃隊に吸収される。1937年にナチ党に入党。1938年に親衛隊に入る。1938年から1939年まで六か月間、チロルの第137山岳兵連隊にて義務兵役に就く。1940年に武装親衛隊に志願、SS装甲師団「ヴィーキング」に軍医として配属、ロシア戦線で一級鉄十字勲章を授与される。1942年に負傷し、前線任務に適さないと判定された。1943年4月20日に親衛隊大尉に昇進。1943年5月30日にアウシュヴィッツに配属され、主任医官になった。
メンゲレはアウシュヴィッツに21か月間(1943年5月30日 - 1945年1月17日)勤務し、「死の天使」と渾名された。囚人を満載した貨車がアウシュヴィッツに到着したとき、彼はプラットフォームに立ち、貨車から降りてくる囚人の誰が仕事と実験に役立つか、また誰が直ちにガス室に送られるべきかを選別・指図したからである。
メンゲレの実験は実験対象である囚人を加圧室に置いたり、様々な薬剤をテストしたり、死に至るまで凍らせたり、様々な致命的外傷を与えたりするものだった。メンゲレは双子に特別な興味を持っていた。双子に対する実験は1944年に始まり、メンゲレの助手はプラットフォームに立ち、「双子はいないか、双子はいないか」と叫び、実験対象を集め、特別室に収容した。実験のほとんど全ては科学的価値が曖昧で、倫理を無視していた。子供の目の中へ化学薬品を注入して瞳の色を変更する実験や、様々な切断および他の残忍な外科手術が行われた。双子の静脈を縫い合わせることで人工の「シャム双生児」を作ることを試みたが、この手術は成功せず単に悪性の感染症に感染させただけだった。メンゲレの実験対象の囚人は実験から生還しても、解剖するためにほとんどが殺害された。カイザー・ヴィルヘルム協会人類学・優性学研究所(ベルリン)の所長オトマール・フォン・フェアシュアーのもとへ彼が送ったトラック2台分の記録は後に破却され、彼の仕事の全貌はもはや知られることはない。オトマール・フォン・フェアシュアーは戦後告発もされずにミュンスター大学遺伝学教授として人生を全うし1969年に没した。2001年、戦後56年を経てベルリンを訪れた生き残りの8人の双子に対して、カイザー・ヴィルヘルム協会の後継組織であるマックス・プランク協会の会長フーベルト・マルクル(1938年生)は心より謝罪をした。
[編集] 第二次世界大戦後
1945年1月17日、ソ連軍がアウシュヴィッツ収容所を解放する直前、メンゲレはグロース=ローゼン強制収容所へ移り、更にベルリンへ移った。ドイツ敗戦後は陸軍病院部隊に偽名で紛れ込み、ミュンヘン近郊で米軍の捕虜となったが、彼は解放された。米軍は、捕虜の中にメンゲレがいる事に気づかなかった。1949年に、戦犯追及を逃れようとする元ナチ党員の多くとともにメンゲレはアルゼンチンに逃亡した。1960年のアイヒマン逮捕以降、イスラエルの追及を逃れるために南米諸国を転々とする。メンゲレは妻イレーネと離婚して、1958年に彼の兄弟カールの未亡人マルタと再婚した。彼女と息子はメンゲレに会うためにアルゼンチンへ移る。
彼を追い詰める国際的な捜査努力にもかかわらず、彼は逮捕されずに様々な名で隠れ住み、戦後35年間を生き延びた。1979年に海水浴中に心臓発作で溺死するまで、彼はパラグアイとブラジルで暮らした。1980年代半ばまで彼はナチ・ハンターによる追及から逃げ果せた。1992年に遺骨からのDNAテストで本人であることが確認された。
メンゲレは、小説『ブラジルから来た少年』および映画『マラソンマン』の中で中心的人物として描かれており、1986年にはアメリカのヘヴィメタルバンド「スレイヤー」の楽曲「Angel of Death」にてメンゲレについて歌っており、歌詞が過激すぎるとの理由で世界中から物議の対象となった。
[編集] 外部リンク
- A short essay on Mengele at the Holocaust history project
- A short essay about Mengele by Robert Jay Lifton
- A timeline of his life
- Chicago Tribune Magazine: "How Nazi war criminal Josef Mengele cheated justice for 34 years" by Gerald Posner and John Ware
- Declassified U.S. CIA information on Mengele and other NSDAP war criminals
- "Skeletons in the Closet of German Science" Deutsche Welle (18.05.2005) [1]
- "Rena's Promise: A Story of Sisters in Auschwitz" Macadam & Celissen; (12.2.2006)
- C.A.N.D.L.E.S museum (Children of Auschwitz Nazi Deadly Lab Experiments Survivors) Terre Haute, IN. Founded by Mengele Twin, Eva Korr