ランディ・オートン
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ランディ・オートン | |
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プロフィール | |
リングネーム | ランディ・オートン |
本名 | ランディ・キース・オートン |
ニックネーム | レジェンドキラー |
誕生日 | 1980年4月1日 |
出身地 | テネシー州ナッシュビル |
所属 | WWERAW |
デビュー | 2000年 |
ランディ・キース・オートン(Randy "Keith" Orton、1980年4月1日 - )は、アメリカのプロレスラーである。テネシー州ナッシュビル生まれ、ミズーリ州セントルイス出身。WWEのSmackDown!所属。ニックネームは、「レジェンドキラー」。祖父のボブ・オートンSr、父のボブ・オートンJrの2人ともプロレスラーであり、ランディ・オートンは3代目プロレスラーにあたる。父のボブ・オートンJrは、2005年にWWE殿堂入りを果たしており、授賞式ではランディ・オートンがプレゼンターを務めた。
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[編集] 経歴
2000年にMMWA-SICWにてプロレスデビュー。その後すぐにWWEの下部組織であるOVWに移籍する。2002年の4月にWWEのSmackDown!に昇格。程なくして肩を負傷し長期欠場を余儀なくされるが、その間も自身の怪我の回復具合の申告とファンからの応援メールを募集する「RNN」のプロモで出演を続け、「番組中の良いところで必ず割って入るどうでも良いコーナー」という趣旨でファンの顰蹙を買うキャラクターとなる。9月にRAWに移籍した。
2003年1月20日、トリプルH、リック・フレアー、バティスタがスコット・スタイナーを倒す事を手伝ったのをきっかけに、トリプルH率いるチーム、エボリューションにトリプルHの後継者として入団。しかし直後に怪我のために長期欠場を余儀なくされた。
復帰後は2003年末に獲得したIC王座を7ヶ月間に渡り防衛、これは過去10年間で最長の記録となった。王者の期間にはミック・フォーリーとも抗争、Backlash 2004ではハードコアマッチも経験した。王座陥落後、バトルロイヤルを制し世界ヘビー級王座への第一挑戦権を獲得。3週間後の2004年8月15日に行われたPPV、SummerSlamにて世界ヘビー級王座に挑戦。見事王者クリス・ベノワに勝利し、史上最年少24歳で世界ヘビー級王者になる。
ミック・フォーリー戦での勝利以降からシングルプレーヤーとして十分に売り出せるようになったと判断され、世界ヘビー級王座獲得の翌日にエボリューションから離脱する。アングル上は、エボリューションのリーダー・トリプルHを差し置いて世界ヘビー級王座を取ってしまったことが裏切りとみなされてエボリューションを追い出された形をとり、またオートンとエボリューションの抗争ストーリーもスタートした。2004年9月に行われたUnforgivenでトリプルH相手に防衛を失敗し、世界ヘビー級王座から陥落してしまう。
その後PPV、”New Year's Revolution””Royal Rumble”で王座に連続で挑戦するが、2連敗。
2005年4月に行われた、WWE最大のイベント”WrestleMania 21”では、この大会で12連勝を誇る”墓堀人”ジ・アンダーテイカーに挑戦を機に父のボブ・オートンと組みヒールターンをしたが、敗戦。
同年に行われたドラフトで”RAW”から”Smack Down”にトレード。トレード後肩の負傷で休養していたが、SummerSlam前に復帰し、ジ・アンダーテイカーとの抗争を開始した。テイカーの蝋人形を棺桶に入れ、テイカーをかく乱させようとするなど、心理戦を挑んだがテイカーの方が一枚上手だった。No Mercyで、WWEでは初のハンディキャップ形式の棺桶戦でテイカーから勝利を奪い、棺桶ごと放火してしまった。下記のサバイバー・シリーズ後にテイカーは復活、Armageddonにてヘル・イン・ア・セルマッチで闘ったが、死闘の末親子共にツームストーン・パイルドライバーを受けて敗北を喫した。
Survivor Seriesで行われた、RAW対Smackdown!の対抗戦のSmackdown!代表の選考に一度は漏れるも、代表だったエディ・ゲレロの急死により対抗戦メンバーに加わることになった。
Royal Rumbleでは30番手での参加も、優勝目前でレイ・ミステリオに敗退。 その後故エディ・ゲレロに対する暴言でミステリオを挑発、No Way Outでミステリオの持つ王座挑戦権を賭け試合を行い、勝利して挑戦権を奪取。WrestleMania 22では結局トリプルスレッドとなった世界ヘビー級王座戦でレイ・ミステリオ、王者カート・アングルと対決したが敗退。
WrestleMania 22終了後、WWEより「最低60日の謹慎処分」との発表がなされた(ストーリー上はカート・アングルに足首の骨を折られたため)。バックステージでの素行不良が原因と噂されている。2006年7月に謹慎処分を解かれ復帰。
2006年7月15日、テキサス州ダラスで行われたSaturday Night's Main Eventで、ハルク・ホーガンの娘であるブルック・ホーガンに接近し、それが親バカであるホーガンの逆鱗に触れ、ランディの挑戦をホーガンが受ける形でランディとホーガンの試合がSummerSlamで実現。敗れたためレジェンド狩りには失敗した。同年秋よりエッジとのタッグ、レイテッドRKOを結成してD-Xとの抗争に入った。しかし翌年のニュー・イヤーズ・レボリューション#第3回大会(2007年)WWE RAW's New Year's Revolution 2007|New Year's Revolution]]”で行われた世界タッグ王座戦にて対戦相手のトリプルHが大腿四頭筋を断裂し、以降長期欠場に入ってしまう。そのためD-Xとの抗争も不完全燃焼のままショーン・マイケルズはWWE王座戦線へと流れていってしまった。、レイテッドRKOはというと、エッジとの不仲を仄めかしながらWrestleMania 23を迎え、マネー・イン・ザ・バンク・ラダー・マッチに参加した。ラダー上からのRKOを決めるなど健闘を魅せたものの、勝利にはあと一歩届かなかった。
[編集] レジェンドキラー
前述のニックネームレジェンドキラー(Legend Killer)は、エボリューション入団後に与えられたギミックで、以降名だたるレスラーを次々と倒していくことになる。以下にそれを記す。
- エリック・ビショフ
- クリス・ベノワ
- サージェント・スローター
- ジェイク・ロバーツ
- ジェリー・ローラー
- ショーン・マイケルズ
- ストーン・コールド・スティーブ・オースチン
- トリプルH
- ハーリー・レイス
- ファビュラス・ムーラ
- ブッカー・T
- ミック・フォーリー
- メイ・ヤング
- リック・フレアー
- ロブ・ヴァン・ダム
- ジ・アンダーテイカー
以下はプロレスラーではないが、ランディーオートンに倒されたことがある。
- マーク・キューバン (ダラス・マーベリックスオーナー)
[編集] 得意技
- RKO
- スーパーRKO(雪崩式RKO)
- 変形バックブリーカー
- オゾン(エリックス・スキッパーのオーバードライブと同型)
- トップロープからのクロスボディ
- ドロップキック
- ヨーロピアンアッパーカット
- コーナーに追い詰められてからの丸め込み
- 全身ストンピング
[編集] タイトル履歴
- WWE
- 世界ヘビー級王座 : 1回(史上最年少25歳) → 王座獲得 ”SummerSlam 2004(8月15日)” VS クリス・ベノワ / 王座陥落 ”Unforgiven 2004(9月12日)”VS トリプルH
- 世界タッグチーム王座 : 1回 → 王座獲得 ”RAW(06年11月13日)” VS リック・フレアー&ロディ・パイパー / 王座陥落 ”RAW(07年1月29日)”VS ジョン・シナ&ショーン・マイケルズ
- インターコンチネンタル王座 : 1回 → 王座獲得 ”Armgeddon 2003(12月14日)” VS ロブ・ヴァン・ダム / 王座陥落 ”Vengeance 2004(7月11日)”VS エッジ
- OVW
- ”OVW ハードコア王座 : 3回
[編集] その他
- サバイバー・シリーズ伝統の4vs4(あるいは5vs5)サバイバル・タッグマッチでは絶対の強さを見せ、2003年(チーム・ビショフ)、2004年(チーム・オートン)、2005年(チーム・スマックダウン!)と3年連続でソール・サバイバー(一人生き残り)となった。しかし2006年(チーム・レイテッドRKO)では一転ストレート負けを喫した。
- オートンの肩は二重関節である。
- プロレスラーになる前はアメリカ海兵隊に志願入隊していた。しかし1年後、2度の無断外出と上官に対しての命令不服従により、不名誉除隊処分を受けている。
- 2005年11月、サマンサ・スペノとの婚約を発表した。
[編集] 入場テーマ
- This Fire Burns(Killswitch Engage)
- Burn In My Light(Mercy Drive)
- Line in the Sand(Motörhead)
[編集] 外部リンク
カテゴリ: アメリカ合衆国のプロレスラー | 1980年生 | WWE