レイモン・バール
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レイモン・バール(Raymond Barre、1924年4月12日 - )は、フランスの政治家、経済学者。ジスカールデスタン大統領の下で、1976年から1981年まで首相を務めた。
パリ政治学院教授を経て、1959年から1962年まで産業貿易省で大臣であったJean-Marcel Jeanneneyの官房長を務めた。1967年ドゴールによって欧州委員会副委員長に推薦され、1972年までブリュッセルで勤務する。1976年対外貿易相として入閣する。
ジスカールデスタンが大統領に就任すると、バールを「フランス最高の経済学者」と評価し、首相兼経済・財政相(蔵相、財務相にあたる)に任命した。フランス第5共和制において首相と蔵相を一人の人物が兼ねることは例外的であった。1978年蔵相兼務を解除したが、ジスカールデスタンがフランス社会党のフランソワ・ミッテランに大統領選挙で敗北するまで首相職にあった。
首相としては、ジスカールデスタン政権自体が旧ドゴール派の流れを汲み、バールの前任者であるジャック・シラクが党首である共和国連合と中道右派のフランス民主連合の連合体であったため、両党の対立に直面せざるを得なかった。もっとも両党の対立にも関わらず、1979年の下院国民議会選挙では過半数を獲得し左翼に勝利した。
経済情勢では、バール内閣は危機的状況に直面していた。バールは終始、インフレ抑制と公共支出の削減、産業界のリストラを主唱した。労働組合の反対に直面した際もストを行う労組を「旗のポーター」と皮肉り対決姿勢を鮮明にした。バールは「不平を言うのではなく、一生懸命に働け」と労働者に訴えた。これはひとつの正論であったが、石油危機を脱却するための有効な手を打てず国民に責任を転嫁するものとも受け取られ、フランス史上最も有権者に嫌われた首相の一人となってしまった。
内閣総辞職後は、ローヌ県選出のフランス民主連合議員として2002年まで在職した。1980年代を通じて右翼(ここでは広く保守中道の意味)陣営の主導権をめぐり共和国連合総裁のシラクと対峙した。バールはコアビタシオンを第五共和制の理念とは反すると考え、1986年国民議会選挙で保守が勝利すると、シラク主導の組閣を許した。1988年大統領選挙ではフランス民主連合から立候補したが、ミッテラン、シラクに次ぐ3位に終わった。1995年から2001年までリヨン市長を務めている。
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