ローマ軍団
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ローマ軍団(ラテン語:レギオー(legio))は、古代ローマにおける軍隊(excercitus)のうち陸軍の基本的な編成単位のことであり、「軍団」はローマ市民権を有する者だけで構成されていた。ローマ陸軍は、レギオー(軍団)およびローマ市民権を持たない者からなるアウクシリア(auxilia、支援軍)などで構成されていた。
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[編集] 概要
1つの軍団は、時代によっても異なるが、歩兵・騎兵合わせておよそ5千から6千人により構成されていた。名前や番号をもった約50個の軍団があったが、それらの多くが揃って存続しえたわけではなかった。
元来、ローマが王政であった頃のレギオーという言葉は、召集されたローマ市民により構成されるローマ軍全体を指していた。 レギオが、2つのレギオンに分割され、2人いた執政官がそれぞれ1つずつの指揮権を有する体制に変わったのは、共和政の初期頃と考えられている。この頃の戦争の目的はほとんどが略奪、もしくは防衛であったため、戦いにおいて軍団の総力を結集させることが難しかった。
ローマが軍事行動を計画し、戦争がより頻繁になり、また1人の執政官の指揮する軍団が2つに増やされるようになると、紀元前4世紀、ローマ軍団の編成もより明確に整備されるようになった。また、そもそも司令官が頻繁に交代するため、混乱を避ける為にも陣営の設営などをマニュアル化する必要もあったため、紀元前331年以降から師団指揮官(トリブヌス、tribunus)の制度が導入された。軍団内部の編成は、古典的なファランクス(方陣)からマニプルス(歩兵中隊)制というようにより複雑なものとなり、戦術的に重要な革新を遂げることができた。後のローマ帝国において通常レギオンはアラエ(allae)と呼ばれるローマの同盟国の軍隊(多くの場合、不足気味の騎兵の割合が多い)が加わることで増強されていた。
ローマの歴史において、軍隊は政治的に重要な役割も演じた。彼らの行動如何によっては、野心ある者を帝位に就かせることもできたし、その逆に排除することも可能であった。例えば、69年の「四皇帝の年」におけるウィテリウスの敗北は、ダヌーブ(ドナウ)・レギオンがウェスパシアヌス(在位69年-79年)を支持したことで決定的となった。これまでの経緯から軍団が持つ強力な軍事力、政治力は十分に認識されており、そのためイタリアに留まること、またルビコン川を越えてイタリアに進入することを完全に禁止する法律が制定されるほどであった。
共和政ローマにおいて、執政官の軍隊であった第一と第四軍団を除いて、他の軍団は必要に応じて召集されたり、解散されたりするようになっており、非常に短期間しか存続しなかった。これは当時のローマ軍団は職業軍人ではなく、一般民が適時召集、編成する形態を採っていたためである。帝政時代に入ると、ローマの属州に対する深刻な外敵の脅威が到来するにつれて、レギオンはそれぞれがシンボル(軍団旗)と誇らしい戦歴を持った完全な常備軍団となった。
レギオンはレガトゥス・レギオニス(legatus legionis)と呼ばれる軍団長によって指揮された。軍団長には、年齢30歳前後で、大抵は元老院議員を3年以上勤めた人物が任命された。その直属の部下として6人のトリブヌス・ミリトゥム(幕僚)が選任された。その内5人は参謀将校の任務に就き、残る1人は元老院からのお目付け役であった。その他にも、救護や工兵・技師、野営隊長、聖職者や軍楽隊などにおける将校の一団も存在した。
ちなみに、元老院時代まで、上級将校は民衆の選挙によって選ばれ、百人隊長は部隊内の選挙で選ばれる。そのため、上級将校はもとより、百人隊長、特に第一歩兵隊に選ばれることは最大の名誉とされていた。
[編集] 部隊編成
共和政の中期には、レギオンは以下のような部隊から構成されていた。階級による仕分けは、共和制下のマリウス、スッラによる軍制改革によりその前後でその内実に違いがある。
また、古代ローマについての文献が、当のローマが滅んで長く、書籍の断片や遺跡の出土品などが数多いため、その解釈もまた多くなってしまい、ほぼ当時のまま再現することは難しいといわざるを得ない状況である(もっとも、これは歴史に関すること全てに言えるが)。
- 騎兵(重装騎兵、エクイテス、Cavalry、equites)
- 編成当初より最も信望の厚い部隊で、ローマの富裕な新興階級によって構成されており、彼らは政治的な経歴を積むための足がかりとして名を挙げようとしていた。
- 騎兵の装備は丸い盾、兜、鎧、剣と複数のジャベリン(投げ槍)などであったが、各人が自費で揃えていた。
- 騎兵隊の総勢は3千人程でレギオンの多数を占めていたが、補佐要員を除くと乗馬者は約300人しかおらず、30の騎兵からなる10の部隊に分割されていた。これらの騎兵は十人隊長(decurion)によって指揮された。
- 軽装騎兵・軽装歩兵
- 重装騎兵に加われる程富裕ではない市民やハスタティやエクイテスに加わるには若い富裕な市民によって構成された。
- 軽装歩兵は遠距離攻撃を役割として与えられることが多く、「弓兵」や「投石歩兵」も軽装歩兵に入る。
- ウェリテス(軽装歩兵)は戦闘において正式に決められた編成や役割を持っていなかったが、状況に応じて彼らが投入された。
- 重装歩兵
- 重装歩兵は、レギオンの中心部隊であった。彼らは青銅の兜や盾、防具、ジャベリンなどの装備を購入することができる位には経済的に余裕のある市民から構成されていた。
- 彼らは武器としてグラディウスという短剣を好んで使用した。
重装歩兵は、各人の戦歴に応じて3つの隊列に分けられた。
- ハスタティ(hastati)は、第一戦列兵のことで、若年者、新参兵が最前列に並んだ。
- プリンキペス(principes)は、戦闘に熟練した20代後半から30代前半の者で、第二列を構成した。
- トリアリィ(triarii)は、古参の兵士で、最後列を占めた。彼らはよほどのことがない限り戦闘に投入されることはなかった。
3つの戦列はそれぞれ、ローマ軍の構成単位の1つである複数の中隊(maniple)から成っていた。 中隊はそれぞれケントゥリオ(百人隊長、centurion)に率いられた2つのケントゥリア(百人隊)から構成された。 ケントゥリア(百人隊、centuria)は名目上は名前の通り100人の兵士から構成されるとされていたが、実際は100人よりも少なく、特にトリアリィの中隊で顕著で、60人という部隊もあった。百人隊はそれぞれ軍旗を持っており、10人からなる10の分隊(contubernia)から構成されていた。野営時の班(contubernium)としては、8人の兵士がテントと調理道具一式を共有していた。野営技術に長け、大規模な部隊の野営陣地が数十分間で設営、撤収が可能であった。
戦闘において、中隊は通常クインカンクス(quincunx)と呼ばれる格子状の隊形に整列した。 プリンキペスはハスタティの左側に空いた空間を守り、同じようにトリアリィはプリンキペスの左側を守った。
共和政の後期に、戦術における基本的な部隊の単位として中隊の代わりに大隊(cohort)が用いられるようになった。 大隊は6から8つの百人隊から構成され、読み書きのできる副官を補佐とした百人隊長により率いられていた。 上級の百人隊長はプリムス・ピルス(primus pilus)と呼ばれる職業軍人であり、軍団長の顧問ともなった。
軍団は多くの野営随行者や使用人、奴隷を引き連れていたため、実際の戦闘員は4800人程であった。 最大6000名にまで増やすことができたが、軍団の指揮官が反乱を起こすことを怖れて1000名ほどに減らされた時期も度々あった。 その中で、カエサルの軍団だけがおよそ3500人を保有していた。
[編集] ローマ重装歩兵の武装
[編集] 防具
重装歩兵の鎧は、当初古代ギリシアの青銅製の胴鎧(トラークス)に倣った胴鎧(ローリーカ)であったが、高価なものであったのでより安価なものが求められるようになった。その一つとして、エトルリア人が東方よりもたらしたもので、青銅の小金属板を繋ぎ合わせた、ローリーカ・ラーメルラ(小札鎧)が登場した。更に、前221年に撃破したガリア人からの戦利品「鎖鎧」を模倣し、量産された鎧としてローリーカ・ハーマータ(鎖帷子)がある。鎖帷子は後に中世ヨーロッパでも主要な防具として使用される。まだ装備が自前で賄う市民兵時代は、個々によってまちまちで、金属板一枚を胸に張っただけの鎧など、かなり簡素化されていたものもある。
共和政の時代が終わり、帝政の時代になると、新たな鎧が開発された。2代皇帝ティベリウスの時代に鉄製の金属板を組み合わせて作られたもので、ローリーカ・セグメンタータ(板札鎧)と呼ばれた。従来の鎖帷子に比べて防御性にすぐれており、機動面でみても鎖帷子より軽くて問題にならない優秀なものであった。私たちが“古代ローマの兵隊”といわれたときに思い浮かべるのは、このローリーカ・セグメンタータをきた兵士であろう(鎧の項のローマ兵士の画像参照) しかし、セグメンタータは何枚もの金属板を複雑に組み立てる必要があり、部品の接続部分の腐食など、メンテナンス部分で問題が多発し、上記二つの鎧に比べ短期間しか使われていない。
楯は楕円形をしており、その形状からスクートゥム(楕円楯)と呼ばれた。はじめは重装兵の機動力重視のため軽かったが、帝政期になると重量が重くなり、表面には鷲の羽を組み入れた意匠が施されるようになった。
兜はカッシスと呼ばれ青銅製であったが、帝国の領土が広がるにつれて、属州で直接生産されるようになると、本国に先立って紀元0年頃には鉄製の兜が生産されるようになった。
[編集] 武器
槍はソルフェルルム(別名サウニオン)、ピールム、ハスタの3種類があり、いずれも投槍である。これらを投げて敵の楯に刺さると、曲がって抜けなくなる。そうなると敵兵はその重みで楯を支えられなくなる。
剣は刃渡り70cmほどのグラディウスという片手剣で紐で結んで肩からかける。
短剣はプーギオーと呼ばれ、こちらは腰のベルトにつけられる。
[編集] 戦術
当時のローマに対する敵は、カルタゴ・パルティアなどの大国家を除けば、殆どが規律などない武装集団だった為、整然と組まれた陣形と統一された攻撃にたちどころに粉砕された。また、大国と言っても、軍隊の中核は傭兵である為、自国民で構成されたローマ軍団に士気の点で一利あったのは否めない。 この時代の戦闘は映画のような敵味方入り乱れての乱戦はめったに起こらず、どちらかが敵に突撃し、短い間に白兵戦が展開した後、距離を取って散兵戦を行うのが一般的だった。そして、士気が崩れて敗走したほうが負けであり、勝者の死傷者は極端に少なく、敗者は極端に多かった。 この点において、ローマは三列にし、後方に老練兵を配置したことで相手より優位に立てた。 ローマにおいては、歩兵による攻撃より、むしろ敵が敗走した後の追撃が重要視され、騎兵はそのために使われた。
[編集] 関連項目
- 古代ローマの軍事 - 古代ローマの軍制
- ローマ軍 - ローマ陸軍 - ローマ海軍
- ポエニ戦争
- 親衛隊 (ローマ帝国)
[編集] 参考文献
- 三浦櫂利 著 『西洋甲冑武器事典』柏書房、2000年
- エイドリアン・ゴールズワーシー 著 『古代ローマ軍団大百科』
- 塩野七生 著 『ローマ人の物語』シリーズ