三井銀行
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三井銀行(みついぎんこう、Mitsui Bank)は、かつて存在した三井グループの都市銀行。金融機関コードは、0002。1990年に太陽神戸銀行と合併して「太陽神戸三井銀行」となり、後に「さくら銀行」と改名。現在は住友銀行と合併して三井住友銀行となっている。
本店は当初東京都中央区日本橋室町の三井本館(現在の三井住友銀行日本橋支店)にあったが、1943年に帝国銀行の発足に伴い千代田区丸の内(旧第一銀行本店。現在のみずほ銀行丸之内支店)に移る。1948年の新発足時に日本橋室町へ戻すが、1960年には業容拡大のため千代田区日比谷(現在の三井住友銀行本店)に移転した。
行章は三井両替店開業時から1943年までは三井財閥共通の「丸に井桁三」を使用。帝国銀行発足後「八重桜」となり、1954年以降はこの八重桜に「井桁三」を重ねた意匠となった。創業100年を迎えた1976年に「丸に井桁三」に戻すが、1984年以降はCIを導入し、青地に白で楕円に「三」の字を基調としたマーク(作成・五十嵐威暢)を使用した。
なお、通常の都市銀行・地方銀行のトップが頭取と称しているのに対し、三井銀行は社長と称していた。
[編集] 沿革
- 1683年(天和3年)5月、三井八郎右衛門高利が江戸駿河町(現在の東京都中央区日本橋室町)に開いた越後屋三井両替店をその起源とする。この両替店はもともと隣接する呉服店(現在の三越)の補助機関であったものが、やがて本両替に昇格し幕府の金銀御用達としての地位を得るまでに発展した。明治新政府成立後も為替方となる。
- 1871年(明治4年)、為換座三井組を開設。日本で最初の円単位紙幣を発行した。三井はこのまま本格的な銀行業への進出を目論んだが、1875年(明治5年)、政府の命によって小野組と共同で「三井小野組合銀行」設立することを余儀なくされる。同行はそのまま第一国立銀行となり、事実上三井の手から取り上げられた。
- 1874年(明治7年)、三井両替店は為替バンク三井組に改組。
- 1876年(明治9年)、私立銀行・三井銀行が開業し、念願の本格的な銀行事業に進出する。この銀行は、国立銀行に属しない日本最初の民間銀行となった。
- 明治中期に中上川彦次郎・益田孝が明治新政府勘定方以来の公的業務を返上して、民間取引に専念して機構改革を行った。
- その後同行は明治後期から大正期にかけて三井財閥の中枢として機能し、また鐘淵紡績(現・カネボウ)、芝浦製作所(現・東芝)、豊田自動織機など多くの企業を支援・育成した。
- 1943年(昭和18年)、戦時統合という時流に乗って、ようやく同根でもある第一銀行と合併。日本最大の都市銀行・帝国銀行(通称・帝銀)が誕生した。
- 1948年(昭和23年)、行内の旧三井・旧第一との対立などから第一銀行(第一勧業銀行を経て現在のみずほ銀行、みずほコーポレート銀行)が再度分離。これによって中位行に転落。
- 1954年(昭和29年)、帝国銀行は三井銀行に改称。
- 1968年(昭和43年)、東都銀行(東京地盤の地方銀行)を合併する。
- 1990年(平成2年)、中位行から脱却するため、多くの店舗網を持っていた同じ中位行の太陽神戸銀行(本店・兵庫県神戸市)と対等合併。太陽神戸三井銀行となる(存続会社は三井銀行)。
戦後の再分割によって他行に比べて業容が半減し、その後の出店規制で中位行のまま高度経済成長期を推移。このため三井グループの金庫番としての機能を十分果たせない時期が続き、一時は三井物産のメインバンクを富士銀行(現在のみずほ銀行、みずほコーポレート銀行)に奪われた。ただし、戦前からの企業の支援・育成の伝統は受け継がれ、トヨタ自動車・ソニー・イトーヨーカ堂・相模鉄道などは三井銀行の支援や、三井銀行出身者の助言によって成長した。ソニーの社外取締役に旧三井銀行出身の岡田・三井住友銀行会長が就任したり(現在は退任)、トヨタが旧さくら銀行の増資に協力したのはそのためである。
[編集] 関連項目
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