三好英之
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三好 英之(みよし ひでゆき、旧名栄次郎、明治18年(1885年)8月 - 昭和31年(1956年)2月14日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員、参議院議員。鳥取県米子市名誉市民。従三位勲二等。
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[編集] 経歴
- 1924年の第15回衆議院議員総選挙に無所属で立候補し初当選し、以後1942年の翼賛選挙に推薦候補として当選するまで通算6回当選。
- 1927年立憲民政党の結成に参加。戦前は米内内閣の陸軍政務次官、大政翼賛会中央協力会議員、翼賛政治会衆院部長等を歴任した。また院内では商工委員会に属していた関係から岸信介と親交を結んだ。戦後日本進歩党の結成に参加したが公職追放となった。
- 追放解除後は、一旦民政旧友会を結成したが、武知勇記らと共に岸信介を担いで保守新党を結成しようと画策。国民民主党と合同して保守新党を結成しようとする大麻唯男・松村謙三らと対立し新日本政治経済調査会を結成。更に旧民政党系以外の政治家も加えて日本再建連盟を結成し理事長に就任した。
- 1956年、東京第二国立病院において死去。三好が死亡した後「三好を偲ぶ会」でのあいさつに友人の岸信介は「私が今日あるはすべてこれ三好君のおかげであり、もし私に足らざるところがありとすれば三好君が余にも早く私とはなれて他界したからにほかならない」と述べている。
墓所は米子市の福厳院にある。
[編集] 人物像
[編集] 家族親族
- 妹 たき(島根県 原本虎一郎に嫁する)
- 妻 モト(島根県 遠藤嘉右衛門妹)
[編集] 系譜
- 道笑町三好氏 三好家は戦国大名三好長慶の末裔を称し米子藩主中村家の遺臣であったことにより米子城城代職荒尾氏から終世20人扶持をあたえられ米子城下の目抜き通りに店をもつことをゆるされた豪商郷士であった。伝承では仁兵衛長政を米子三好家の先祖とし初代三郎兵衛は仁兵衛の子供か孫に当たるという。英之は10代目になる。息子基之の妻は実業家米原章三の娘。
現在も町内に三好内科医院やその一門が繁栄している。
仁兵衛長政(伝承)……三郎兵衛━三郎兵衛━吉三郎━吉三郎光豊━佐二郎秀福━吉十郎秀顕━吉三郎秀篤 ━八次郎秀豊━常次郎━英之━基之
[編集] 参考文献
- 吉本重義 『岸信介傳』 東洋書館 1957年 150-152貢
- 佐々木謙 『伯耆米子城』 立花書院 2000年(改版) 38-41貢 115-118貢
- 佐藤朝泰 『豪閥 地方豪族のネットワーク』 2001年 427、429貢