米子城
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本丸石垣 (中央が大天守台、左が副天守台) |
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通称 |
久米城、湊山金城 |
城郭構造 |
梯郭式平山城 |
天守構造 |
独立式望楼型 |
築城主 |
山名氏か? |
築城年 | |
主な改修者 | |
主な城主 | |
廃城年 | |
遺構 |
石垣 |
位置 |
米子城(よなごじょう)は、鳥取県米子市久米町に所在した城郭。久米城、湊山城ともいう。戦国時代、飯山(いいのやま:国道9号線南側)に営まれた砦と、湊山(みなとやま:国道9号北側)を中心に営まれた近世城郭がある。江戸時代初期には米子藩の藩庁となり、その後鳥取藩の支城となった。平成18年(2006年)1月26日、国史跡に指定された。
目次 |
[編集] 戦国時代(飯山)
[編集] 構造
- 飯山の頂上に、南北約85m、東西約35mの郭を構える。東と北に野面積みで高さ2m前後の石垣を各2段設ける。
- 門が3か所あり、現在は削平されているが、南が1段高く、建物の痕跡があったという。
[編集] 歴史
- 応仁の乱時、西軍の山名氏が支配する伯耆と、東軍京極氏が支配する出雲の国境は緊張した。「出雲私伝」によると、文明2年(1470年)尼子清定と戦った伯耆方が敗れて米子城に入るとあり、この頃の築城と考えられる。
- 大永4年(1524年)、大永の五月崩れによって落城、尼子氏の支配となる。
- 永禄5年(1562年)頃、毛利氏の尼子氏攻略に伴い、山名氏の支配に復す。
- 永禄12年(1569年)、尼子氏再興の旗揚げをした山中鹿介らは、米子城主山名之玄と結ぶ。しかし、毛利方の吉川元春に攻められ落城、城主・山名之玄は自害した。
- 吉川元春は配下の福頼元秀、天正5年(1577年)から古曳吉種を城主にしたと推定されている。
- 天正19年(1591年)、東出雲・隠岐・西伯耆を領した吉川広家が城主となり、古曳吉種に命じ、湊山に築城を始める。しかし古曳吉種は文禄の役で戦死し、吉川広家は関ヶ原の戦いの結果、岩国へ転封される。
[編集] 江戸時代(湊山)
[編集] 構造
- 本丸は、標高90mの湊山山頂に位置し、西伯耆から出雲の平野部や日本海、中海が一望できる。大天守や副天守、二重櫓、多聞櫓、鉄御門(くろがねごもん)などが置かれた。なお、本丸までに番所跡や遠見櫓(とおみやぐら)跡などが残る。
- 大天守は、慶長5年(1600年)、城主となった中村一忠が吉川広家の建てた4重天守の横に建てた5重のもので、幕末から明治初年に撮影されたと思われる古写真が残っている。1間を6尺5寸とし、基盤は10間×8間、初重と2重は基盤と同じ、3重は7間×6間、4重と5重は3間×2間半を測る。外観は大破風が2階屋根、3階屋根は四方に、5階と2階屋根には唐破風がある。5階には望楼部の高欄を覆ったと考えられる板庇があり、特異な外観となっていた。高さは21mはあったと考えられ、鳥取城をもしのいでいた。
- 副天守は、天正19年(1591年)、城主となった吉川広家が建てた4重の天守である。中村一忠が5重の天守を建てた後、副天守となった。後に「4重櫓」と呼ばれる。基盤は不整形で、石落しや出張がある。
- 内膳丸(ないぜんまる)は、本丸に登る途中右手に分かれて登った所にある。丸山と呼ばれ、標高52m。中村一忠の家老横田内膳正村詮が担当し構築したため「内膳丸」と呼ばれる。二重やぐら数棟の武器庫が設置された。横田村詮が暗殺された時、その一族が立て籠もったという記録もある。
- 二の丸は、城主の御殿や、その台所、藩の役所が置かれていた。慶長8年(1603年)、横田村詮は、この二の丸の建物で暗殺された。現在、裏門にあたる太鼓御門跡や御殿御用井戸が残るほか、昭和28年(1953年)に移築された小原家の表門長屋が置かれ、テニスコートとなっている部分もある。
- 三の丸は、作事小屋、厩舎、資材小屋、米蔵、番人詰所などか建ち並んでいたという。外周には内堀を巡らせ、大手門、搦手門、鈴(すんず)の門で守られていた。現在、鳥取大学医学部付属病院や米子市営湊山球場の敷地となっている。
- 桝形は、二の丸への入口にある。東西25.4m、南北22.7mを測る。
- 飯山も出丸として改修され、「東の丸」あるいは「采女丸(うねめまる)」と呼ばれたと伝わる。横田村詮の暗殺により、一族が立て籠もったのは、飯山との見方が強い。
- 深浦は城の西方・中海に面しており、当初は毛利水軍の軍港が設けられていたと考えられている。
[編集] 歴史
- 慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いの戦功により、中村一忠が伯耆17万5000石を領し、初代米子藩主となる。一忠は家老の横田村詮と共に、米子城を完成させ、城下町を整備した。
- 慶長8年(1603年)、城主中村一忠によって横田村詮が暗殺され、その一族が反乱を起こすが、鎮圧された。
- 慶長14年(1609年)、中村一忠が病死、家系断絶のため改易され、翌年加藤貞泰が伯耆2郡6万石を領して藩主となる。
- 元和3年(1617年)、加藤貞泰が大洲藩に移され、米子藩は廃藩となる。伯耆・因幡はすべて鳥取藩池田光政の所領となり、米子城は家老の池田由成が駐在した。
- 寛永9年(1632年)、池田光政の岡山国替により、池田光仲が藩主となり、明治維新に至るまで米子城は家老の荒尾氏が駐在した。
[編集] 明治以降
- 明治3年(1872年)、米子駐在の大四大隊の士族らに無償で払い下げられる。
- 明治8年(1875年)、士族ら、土地と建物の買い取りを米子町に要請したが、不成立となり、切り売りされる。
- 明治12年(1879年:一説に明治9・13年)、当時の金30円ばかりで古物商山本新助に売られ、石垣を残して取り壊された。その後、城跡一帯は坂口氏の手に渡る。
- 昭和8年(1933年)、坂口氏から米子市に寄付され、現在は湊山公園として整備されている。
- 昭和41年(1966年)、飯山に英霊塔が建てられる。
- 平成18年(2006年)、国の史跡に指定される。