三遊亭圓生 (4代目)
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4代目三遊亭圓生(さんゆうてい えんしょう、1846年(弘化8年)8月 - 1904年(明治37年)1月27日)は、東京の落語家。本名、立岩勝次郎。
越前掘の石屋・越前屋宗次郎(一説には下谷大音寺前の石屋・武蔵屋とも)の次男に生まれ、父の姉の婚家である日本橋の幸手屋という小間物屋へ6歳のときに養子に貰われる。
10代の頃に背負小間物の商いに出たが商売が性に合わず養家の勘当にあう、西葛西の青戸の花屋伝次郎の方に預けられる。この隣家に住んでいたのが初代三遊亭圓朝の母の身寄りだったので、これを頼み込んで内弟子となって鯉朝の名を頂く、この時19歳の1864年。
たちまち頭角を現し22歳の時の1867年に圓朝の前名2代目橘家小圓太を頂く。1872年には布団屋の一人娘の聟入りし一時期噺家を廃業する事になる。 妻の布団屋の番頭業が厭気がさし、芝居茶屋を始めるも失敗し1874年に噺家に復帰。翌年に3代目三遊亭圓喬で真打の看板を上げますます人気も上がる。
1882年には大名跡4代目圓生を襲名。圓朝が亡き後は「三遊派」の総帥を20年余り勤めた。
1902年には舌癌を発病し手術。翌年に再発し1月27日に永眠。享年59。
得意ネタは師匠譲りの物が多く「木乃伊取り」「三助の遊び」「三枚起請」などの廓噺(禁演落語)「文七元結」「鰍沢」などの人情噺も得意だった
[編集] 弟子
など。
[編集] 出典
- 諸芸懇話会、大阪芸能懇話会共編『古今東西落語家事典』平凡社、ISBN 458212612X