三遊亭新朝
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三遊亭 新朝(さんゆうてい しんちょう)は落語の三遊派の名跡。現在は空き名跡となっている。
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[編集] 初代
初代三遊亭圓朝のごく初期頃の門人で初め橘屋?小勇。一時期圓朝の門を離れて2代目三遊亭圓生の門に移り2代目になる三遊亭圓太となる。圓生死後圓朝に非を詫びて圓朝の門に復帰、新朝の名を名乗る。
[編集] 2代目
(? - 1892年11月29日)本名:山田岩吉。 初代と同じく初代圓朝の門で三遊亭林朝と名乗る。その後2代目三遊亭圓遊を襲名。 明治7、8年頃2代目新朝となり師匠譲りの人情噺を演じていたらしいが詳しい芸風は等はあまり伝わっていない。
[編集] 3代目
(1868年7月23日 - ?)本名:松永辰三郎。 『古今落語系圖一覽表(俗に文之助系図)』によると2代目三遊亭圓楽(後の三遊一朝)の門で楽之助、その後初代三遊亭圓右の門で初代にあたる三遊亭右鶴、三遊亭右圓次となるが『名前欄』には3代目麗々亭柳橋(後の初代春錦亭柳桜)の門(一説には初代三遊亭圓窓(後の6代目司馬龍生の門))で金窓(ないし錦窓)、1889年には春錦亭窓橋となる。1893年に4代目三遊亭圓生の門に転じ3代目新朝を襲名。その後1895年にはなぜか桂文枝となっている。最後は松永憲太郎の名で新派の女形に転じた。
[編集] 4代目
(1863年(逆算) - 1907年9月30日)本名:林清之助。享年45才。 最初は圓朝の門で清朝となり圓花となる。 圓花時代の1895年7月29日、ひいきの客(銀行頭取家族)のおともで歌舞伎座へ見物の折に頭取が着用していた黒絽の羽織が紛失し数日後その羽織が質屋に入れられているのが発見される。同行していた圓花が犯人扱いされ翌月8月4日に逮捕され取調べされる。それが切欠で圓朝に破門までされる。しかし真犯人は圓花ではなく頭取の使用人の仕業であった。疑いも晴れ破門も解かれる。当時の雑誌『芸人』の第5号には記事と自身が出した広告が掲載されている。
1899年には4代目新朝を襲名し大阪にも出向き高座に上がった。1905年の圓朝7回忌に帰京。翌年の末広亭、他寄席に出ているときに「脳病」を患い麴町で静養中の1907年9月30日に死去。
芸風は持ちネタが多く圓朝の陶酔を受けただけあって人情噺を得意とした。
[編集] 5代目
(1866年11月 - 1936年3月2日)本名:桂卯之助。享年70才。 『文之助系図』によると桂塩助のいった噺家の枠で塩吉といった。
明治20年代前半に東京に行き3代目春風亭柳枝の門で2代目にあたる春風亭錦枝を名乗る。1894年7月には三遊派に移り4代目三遊亭圓生の門で4代目橘家?圓次郎と改める。1908年10月には新朝で真打の看板を上げた。
「桜田の雪」等を売り物にしていたがあまり人気は出ず大正に入っても各派を転々とし昭和3年頃には引退した模様。
[編集] 出典
- 諸芸懇話会、大阪芸能懇話会共編『古今東西落語家事典』平凡社、ISBN 458212612X