中ソ国境紛争
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中ソ国境紛争(ちゅうそこっきょうふんそう)とは、中華人民共和国とソビエト連邦の国境問題により生じた紛争のこと。1969年3月2日、15日にアムール川(中国名は黒竜江)の支流ウスリー川の中州であるダマンスキー島(中国名は珍宝島)の領有権を巡って大規模な軍事衝突が発生した(珍宝島事件、ちんぽうとうじけん、ダマンスキー島事件)。同年8月にも新疆ウイグル自治区で軍事衝突が起こり、中ソの全面戦争や核戦争にエスカレートする重大な危機に発展した。かつて蜜月を誇った中国・ソ連の対立が表面化した事件でもあった。
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[編集] 緊張と衝突
1950年代後半のニキータ・フルシチョフ首相によるスターリン批判以降、ソビエト連邦と中華人民共和国の間では関係が悪化し、在北京ソビエト連邦大使館に対する紅衛兵の襲撃や、国境地帯において小規模な発砲事件など両国の衝突は度々起きていたものの、本格的な軍事衝突は起きないままでいた。
1960年前後に始まった中ソ対立により両国間の政治路線の違い・領土論争をめぐって緊張が高まり、1960年代末には4,380kmの長さの国境線の両側に、658,000人のソ連軍部隊と814,000人の中国人民軍部隊が対峙する事態になった。
1969年3月2日、極東のウスリー川の中州・ダマンスキー島(珍宝島)で、ソ連側の警備兵と中国兵による衝突が起こった。これに関しては双方とも「先に相手が攻撃を仕掛けた」と主張している。戦闘で31人の死者と14人の負傷者を出したソ連軍は、中国東北部国境に展開している中国人民軍に砲撃を行い、ダマンスキー島に部隊を突入させた。ソ連側はこの攻撃で80人の死傷者を出し、中国側に死者800人の損害を与えたと主張している。またソ連側は、中国人民軍部隊は民間人・農民・家畜に部隊を囲ませながら前進する戦術を取ったと主張している。中国側はソビエト軍に大きな損害を与え、自軍の死者はごく少なかったと主張している。
7月8日には中ソ両軍が黒竜江(アムール川)の八岔島(ゴルジンスキー島)で武力衝突するなど、極東および中央アジアでのさらなる衝突の後、両軍は最悪の事態に備え核兵器使用の準備を開始した。こうした最中、1969年9月に北ヴェトナムのホー・チ・ミン国家主席が死去し、ソ連のアレクセイ・コスイギン首相はハノイでの葬儀に列席した後北京に立ち寄り、中国の周恩来首相と会談して政治解決の道を探り、軍事的緊張は緩和された。国境問題は先延ばしされたが、最終的な解決には至らず、両国とも国境の兵力配置を続けた。
[編集] 背景
こうした国境紛争は、アイグン条約や北京条約など、19世紀にロシア帝国が清から領土の割譲を受けていた時代に作られた条約に、河川上の国境画定に関して不備な部分が多いことが原因だった。このため中央アジアから極東に至る中ソ国境各地に帰属の不明な部分が多く、中ソ間の見解は一致していなかった。また中国側には、帝国主義の時代に不当に領土が奪われたという被害者意識があり、ソ連側には人口の多い中国に対する恐怖があった。
なお、この武力衝突は文化大革命の最中における毛沢東一派の外国に対する強硬政策の一つと言われるが、同時に、近世以来のロシアにおける「南下政策」の一つであるとも言われる。
[編集] 解決への交渉
両国の国境画定への協議や交渉は、1970年代も続けられたが、ソ連を敵とみなし中ソ外交で国境問題を最優先する中国側は有効な成果を得る事ができなかった。1980年代後半、中ソは国境問題を両国関係の最優先課題から外して国境交渉をひそかに再開し、1989年にミハイル・ゴルバチョフ大統領が訪中して中ソ国交が正常化した時期にようやく全面的な国境見直しが始まった。
[編集] 1991年と1994年の合意
ソ連崩壊の直前の1991年5月16日、中ソ国境協定(中露東部国境協定)が結ばれ、極東の大部分の国境が画定し1992年に批准された。特に、それまで双方が管理下にあると主張してきた珍宝島(ダマンスキー島)に関し、島が中国に帰属することが合意された。ロシア連邦は交渉を引き継ぎ、1994年には中央アジア部分に関する中ロ国境協定(中露西部国境協定)が結ばれ1995年10月17日批准され、中ソ国境の最後の54kmが画定した。ソ連から独立した中央アジア諸国と中国との国境協定も個別に結ばれた。
[編集] 2004年の合意
残る未確定地域は、1991年の中露東部国境協定で棚上げにされた、アイグン川の島(ボリショイ島、中国名:阿巴該図島(アバガイト島))とアムール川とウスリー川の合流点の二つの島(タラバーロフ島(中国名:銀龍島)と大ウスリー島(中国名:黒瞎子島、ヘイジャーズ島))であり、合意は困難とされていた。これら三つの島に関する協議も粘り強く進められ、2004年10月14日に最終的な中ロ国境協定が結ばれた。この協定では、アムール・ウスリー合流点部分では、タラバーロフ島の全部と大ウスリー島の半分は中国に、大ウスリー島の残りのハバロフスク市に面する部分はロシアに帰属することとなった。また内モンゴル自治区側のアバガイト島は中国に帰属することとなった。中国の全国人民代表大会の常務委員会は2005年4月27日に批准、ロシア連邦議会の国家院(下院)も続いて2005年5月20日に批准した。批准書の交換は2005年6月2日に完了し、双方の外相が署名を行った。ロシア連邦と中国は、これを以って全ての国境問題は解決したと発表した。
もっとも、双方が領土の主張の一部をあきらめるという痛み分けの結果は、両国の民族主義者にとっては「領土を放棄した」と評判が悪い。
[編集] 米中国交樹立
冷戦最中であり、また、中華人民共和国では文化大革命の真っ只中に起きたこの軍事衝突を機に、ソビエト連邦と中華人民共和国の関係は決定的に悪化した。その後水面下で、中華人民共和国同様にソビエト連邦と対立しており、その上、これまでは中華人民共和国の中国共産党と対立する中華民国の中国国民党と友好関係にあったアメリカが急速に接近し、1972年にアメリカのリチャード・ニクソン大統領が急遽北京を訪問し毛沢東主席と会談し、友好関係を持つに至った。
その後正式国交は結ばれずにいたが、カーター政権下の1979年1月1日をもって両国は国交を結んだ。なお、これに伴いアメリカと蒋介石率いる中華民国の国交は断絶されることになった。