林彪
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
林 彪 | |
---|---|
1907年12月5日 - 1971年9月13日 | |
生誕 | 湖北省 |
死没地 | モンゴル (墜落死) |
階級 | 元帥 |
部隊 | 八路軍 |
戦闘 | 抗日戦争, 長征 |
除隊後 | 党副主席 |
中華人民共和国 |
主な出来事 人物 理念 統治機構 |
この欄を編集 |
林 彪(りん ぴょう、 リン ピャオ、Lin Biao、1907年12月5日 - 1971年9月13日)は中華人民共和国の政治家、軍人。中華人民共和国元帥。湖北省黄岡出身。
目次 |
[編集] 経歴
[編集] 共産党入党
湖北省で生まれ、中学卒業後1923年に社会主義青年団、1925年には黄埔軍官学校に入り、中国共産党に入党。卒業後、国民革命軍第12師葉挺独立連隊で小隊長・中隊長を勤める。1927年の南昌蜂起に参加し、井崗山で毛沢東に合流し、長征にも参加した。労農紅軍第四軍軍団長、紅軍大学校長などを勤めるなど、英雄的な指揮官として名を馳せた。
[編集] 八路軍
抗日戦争(日中戦争)では八路軍115師を率い、山西省で遊撃戦を指揮。平型関では板垣征四郎中将率いる大日本帝国陸軍第2師団所属の部隊を破ったが、これは抗日戦争で中国共産党があげた最初で、かつ最大級の勝利とされる。1939年には頭部に負った戦傷の治療のためソ連に行く。この戦傷が原因でモルヒネ中毒になる。1942年延安に戻り、中央党校副校長。国共内戦では、東北野戦軍司令員、第四野戦軍司令員として活躍した。
[編集] 指導者に
1949年の中華人民共和国成立後、中央人民政府委員、中南軍区司令員、党中央軍事委副主席に選出。朝鮮戦争では直接参加せず、彭徳懐が指揮を取った。ただし、林彪が育てた精鋭部隊が活躍している。1955年に十大元帥の一人となり、朱徳、彭徳懐と並ぶ軍事指導者となった。
[編集] 軍の実権を掌握
1959年の廬山会議(政治局拡大会議)で彭徳懐が大躍進運動について毛沢東批判を行って国防部長を解任されると、新国防部長に就任し、軍権を掌握した。軍の近代化と国境付近での敵撃滅を主張する彭徳懐と異なり、林彪は毛沢東の持久戦論、遊撃戦論を支持していた。そんな林彪が軍で実権を掌握したことが、後に発生する文化大革命の伏線になったといわれる。文化大革命が始まると、「毛主席の親密な戦友」として、多くの軍幹部を失脚に追い込んだ。
[編集] 墜落死
1969年の9全大会では党副主席となり、毛沢東の後継者として公式に認定されたが、劉少奇の失脚以後、空席となっていた国家主席のポスト廃止案に同意せず、野心を疑われることになる。1970年頃から林彪とその一派は、毛沢東の国家主席就任や毛沢東天才論を主張して毛沢東を持ち上げたが、毛沢東に批判されることになる。さらに林彪らの動きを警戒した毛沢東がその粛清に乗り出したことから、息子で空軍作戦部副部長だった林立果が中心となって権力掌握準備を進めた。
1971年9月、南方視察中の毛沢東が林彪らを批判、これを機に毛沢東暗殺を企てるが失敗し(娘が密告したためとの説がある)逃亡。1971年9月13日、ソ連へ人民解放軍が所有するイギリス製のホーカー・シドレー トライデント旅客機で逃亡中にモンゴル人民共和国領内で墜落死した。燃料切れとの説と、逃亡を阻止しようとした側近同士が乱闘になり発砲し墜落したとの説と、ソ連が入国拒否した為ミサイルで撃墜された説がある。なお、逃亡の通報を受けた毛沢東は「好きにさせればよい」と言い、特に撃墜の指令は出さなかったといわれる。死後の1973年に党籍剥奪。
[編集] 墜落死事件についての謎
当初林彪は毛沢東暗殺まで考えていなかったが、最終段階になって林立果にクーデター・暗殺計画を打ち明けられた、という説もある。また、林彪と毛沢東には対外政策での意見の食い違いがあり、これが反目につながったとも言われる。1969年3月に起きた珍宝島事件を契機に、毛沢東はソ連の脅威をますます実感するようになったが、二正面作戦をとるのは上策ではないとして、米帝と罵り敵視していたアメリカに接近を試みる。一方、林彪はあくまでも敵はアメリカであると主張したという。いずれにせよ、林彪事件には今なお謎が多い。
[編集] 再評価
1981年の林彪・四人組裁判では「反革命集団の頭目」とされ、彼が抗日戦争であげた戦功は歴史から抹殺されることになったが、近年、研究者の間では革命期における軍人・林彪の功績を客観的に再評価しようという機運も起きており、北京の革命博物館の展示でも林彪の名が見られるようになった。また、林彪事件直前に書かれた林彪グループの毛沢東暗殺に関する計画書のなかで、「毛沢東はマルクス主義でも何でもない」「現代の始皇帝である」「中国を人民の相互軋轢によるファシズム独裁国家に変えてしまった」という記述が、文化大革命に厳しい批判的な見方を示す研究者からも注目されている。
[編集] こぼれ話
- 1971年9月の墜落事件の際、ソ連のKGBは現地に赴き、モンゴル領内に墜落したトライデント旅客機の中から9体の焼死体を回収、その中の1体を林彪と断定した。抗日戦争当時、林彪は頭部の戦傷の治療のため、ソ連の首都のモスクワに赴いたが、その当時のカルテが残存していた。その焼死体の頭蓋骨部分に認められた傷とカルテの記載が一致、これが決め手になったという。
- 林彪事件は朝日新聞への批判として、よく引き合いに出される。これは当時の朝日新聞が林彪失脚の事実を薄々感じていながら、中国共産党政府の機嫌を損なう事を避けるために懐疑的な記事を掲載し、結果的に誤報をばらまいたことによるものである。
- 中国人政治学者の厳家祺およびその妻の高皋による『文化大革命十年史』によれば、1950年に林彪が体調不良を訴え朝鮮戦争への出征を拒んだ際、診断した党幹部の御用達医師である傅連暲によって体の主立った器官に疾患はなく、神経系の異常あるいはモルヒネ中毒と診断され、これが毛沢東に報告された。毛沢東は以前から林彪の中毒を知っており、まもなく、林彪に曹操の詩『亀雖寿』をしたためて送ったとの逸話が載っている。
[編集] 関連項目
カテゴリ: 中華人民共和国の政治家 | 中華人民共和国の軍人 | 文化大革命 | 1907年生 | 1971年没