京極高数
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京極高数(きょうごくたかかず ? - 1441年7月12日(嘉吉元年6月24日))は、守護大名である京極氏の室町時代中期の当主。始めは京極高員と称した。
1411年(応永18年)に飛騨の国司姉小路尹綱が幕府に背いた飛騨の変が起きると、幕府軍の総大将へと任命され、越前の朝倉氏、甲斐氏、信濃の小笠原持長らと共に、五千余りの兵を率いて鎮圧している。
翌々年の1413年(応永20年)に兄の高光が亡くなり、その子の持高が後を継ぐが、持高は1439年(永享11年)に子を残さぬまま亡くなる。薩戎記はこの後に高数が家督を継いだとしているが、高数を当主には含めない史料も多い。
1441年(嘉吉元年)6月24日、赤松満祐が開いた酒宴に将軍の足利義教、諸大名、公家らと共に招かれ、その最中に突然、義教が赤松氏の家臣により首をはねられる。管領である細川持之を始め多くの諸大名が逃げ出す中で、高数はその場に残って戦い、討たれた。嘉吉の乱という。
家督は先代の持高の弟である持清が継いだ。また、次男に多賀氏の家督を継いだ高忠がある。
- 参考史料
- 西讃府史、薩戎記、嘉吉記