細川持之
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細川 持之(ほそかわ もちゆき、応永7年(1400年) - 嘉吉2年8月4日(1442年9月8日))は、室町時代の室町幕府管領・守護大名である。父は細川満元。兄弟に細川持元、細川持賢。子に細川勝元。名は弥九郎。中務少輔、右京太夫。官位は従四位下。
摂津国、丹波国、讃岐国、土佐国の守護。1432年(永享4)に斯波義淳のあと管領に就任し、6代将軍足利義教が専制政治を行うなか管領職を務め、関東地方で発生した1438年(永享10)永享の乱、結城合戦にも対応する。1440年に赤松満祐が結城合戦祝勝会で義教を暗殺された際には持之は難を逃れている。義教暗殺後は幼い嫡子の足利義勝を将軍に就任させ、諸将を結集させて赤松氏を討伐する(嘉吉の乱)。その後は管領職を辞任して出家し、幕政では畠山持国が台頭する。1442年に死去、享年42。