伊達宗徳
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
伊達 宗徳(だて むねえ、文政13年閏3月27日(1830年5月19日) - 明治39年(1906年)11月29日)は、江戸時代末期の大名。伊予国宇和島藩の第9代(最後)の藩主。第7代藩主・伊達宗紀の三男。官位は正二位、遠江守。
文政13年(1830年)閏3月27日生まれ。幼名は扇松丸。兵五郎。名は宗徳のほか、紀周、宗周。号は馨山。官位は従四位下、遠江守。天保8年(1837年)、従兄の伊達宗城(第8代藩主)の養嗣子となり、安政5年(1858年)11月23日に宗城が井伊直弼の安政の大獄で隠居処分となったため、家督を継承した。藩主就任後も実権は宗城に掌握されていたが、それでも宗城の改革路線を引き継いで専売制の強化、西洋式軍制の導入、教育などの普及など様々な改革で成果を挙げている。しかし、やはり宗城の存在は大きく、宗徳はお飾りの立場に近かった。
明治39年(1906年)11月29日、77歳で死去した。法号:霊照院殿旧宇和島城主正二位馨山宗徳大居士。墓所:愛媛県宇和島市野川の大隆寺。
[編集] 系譜
|
|
|