伊達村豊
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伊達 村豊(だて むらとよ、天和2年11月8日(1682年12月6日) - 元文2年6月30日(1737年7月27日))は江戸時代中期の外様大名。第三代伊予吉田藩主(3万石)。元禄赤穂事件で浅野長矩が勅使饗応役を務めていた際に相方の院使饗応役を務めていたことで有名な人物。はじめ名は宗春と称した。
天和2年(1682年)11月8日、伊達刑部宗職(伊予国宇和島藩主伊達秀宗の七男で同藩の家臣となっていた)の子として宇和島に生まれる。母は里見氏。金之助と称した。
元禄6年(1693年)、宇和島藩の支藩である伊予吉田藩の藩主伊達能登守宗保に子がなかったため、その養子となり、12月7日、12歳で伊予吉田藩3万石の第三代藩主となった。12月15日、はじめて将軍徳川綱吉に謁見し、父の遺品備前基光の刀を献上。元禄10年(1697年)12月18日、従五位下左京亮に叙任。
元禄14年(1701年)2月、霊元上皇の院使として江戸に下向する清閑寺熈定(前大納言)の饗応役に任じられ、一方、赤穂藩主浅野内匠頭長矩が勅使の柳原資廉(前大納言)と高野保春(前中納言)の饗応役に任じられた。二人の指南役は高家肝煎の吉良上野介義央であった。
3月14日、浅野内匠頭の吉良上野介への刃傷の際にも現場に居合わせ、梶川与惣兵衛らとともに浅野の取り押さえに加わっている。歌舞伎『仮名手本忠臣蔵』の桃井若狭之助はこの伊達宗春と亀井茲親(1698年時の勅使饗応役。やはり吉良からイジメを受けたと言われる)の二人をモデルにしたものと見られる。浅野の凶事の後も宗春の方は無事役目を勤め上げている。
宝永元年(1704年)5月28日、はじめて領地である伊予吉田に入った。以降、隔年に参勤交代するようになる。翌年6月1日には青山下野守忠重(丹波亀山藩主)の娘と結婚。正徳3年(1713年)8月15日、官位を和泉守に改め、享保10年(1725年)12月2日にはさらに若狭守となった。また吉宗が将軍に就任した際に「宗」の字が同じであることを憚って名前を宗春から村豊に変えている。享保17年(1732年)、享保の大飢饉で、吉田藩も虫害による損害2万5000石、風水害による損害2000石という大損害を出したため、幕府より3000両を一年据え置きの5年払いで借りることを余儀なくされた。元文2年(1737年)6月30日、伊予吉田藩の江戸藩邸にて死去。法名は沢翁真龍大淵院。墓は東京都港区高輪の東禅寺。
子に早世した村澄、4代藩主となった村信、戸沢正諶と婚約した娘(結婚前に病没)などがいる。
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