伊達宗純
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伊達 宗純(だて むねずみ、寛永13年5月5日(1636年6月8日) - 宝永5年10月21日(1708年12月2日))は、伊予国伊予吉田藩の初代藩主である。父は初代宇和島藩主伊達秀宗(宗純は五男)。母は吉井氏。正室は酒井宮内大輔忠勝の娘。幼名は長松、のち小次郎。官位は従五位下、宮内少輔。
[編集] 経歴
1636年、宇和島藩主伊達秀宗の五男として江戸藩邸で生まれる。
明暦3年(1657年)宇和島藩初代藩主伊達秀宗より3万石を分知され、伊予吉田藩初代藩主となる。
性格は驕慢であったと言われ、吉田藩立藩の経緯からして多事に富んでいる。3万石分知の経緯については諸説あり、秀宗は宗純を寵愛しており、父政宗が没するまで支出していた隠居料3万石を宗純の為に分知した、と一般に言われているものの、一方では二人の兄が相次ぎ早逝するなかで世継ぎとなった三男宗利を妬んだ宗純が、仙台藩の伊達宗勝(政宗の十男で秀宗の弟)と共謀し秀宗の遺言書を偽造した、とも言われている。この分知以降、宇和島宗家と対立する。
ある年、宗純が病に倒れた際、医者として吉田藩領内に滞在していた土佐藩浪人・山田仲左衛門は宗純を診療、全快させた。仲左衛門は文武に通じ、宗純は仲左衛門に100石を知行、後に200石に加増し、重用した。しかし仲左衛門は次第に増長し、家臣の諌言にも宗純は耳を貸さず、藩政は大いに乱れた。遂には仲左衛門の暗殺未遂、更には本家仙台藩への直訴へと発展し、仲左衛門は仙台藩へお預けとなった(山田騒動)。この騒動の事後処理に宇和島藩が関っており、宇和島藩と和解するに至った。
伊達騒動においては流罪となった伊達宗興の正室、子供を預かった。
元禄4年(1691年)、家督を次男の宗保に譲り隠居、1708年死去。享年71。
法号:大乗寺殿鎮山宗護大居士 墓所:玉鳳山大乗寺(愛媛県宇和島市、旧吉田町)
[編集] 系譜
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