佐伯今毛人
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佐伯今毛人(さえきのいまえみし、養老3年(719年) - 延暦9年10月3日(790年11月17日))は奈良時代の貴族。佐伯人足の子。
天平16年(744年)聖武天皇は東大寺の建立を発願。今毛人は造東大寺次官に補されて造営の任に当たり、手腕を発揮して役民を巧みに働かせた。天皇は今毛人の働きを喜び、その才幹を高く評価した。天平勝宝元年(749年)今毛人は七階を越階して従五位下を授かる。
以後昇進を重ねて、天平勝宝2年(750年)正五位上。天平勝宝7歳(755年)造東大寺長官に昇任。天平宝字元年(757年)従四位下。天平宝字3年(759年)摂津大夫となる。天平宝字7年(763年)造東大寺長官に再任。
同年、今毛人は藤原良継、石上宅嗣、大伴家持らと、当時、太師(太政大臣)となり専横を極めていた恵美押勝(藤原仲麻呂)の暗殺を謀議するが、密告により露見。藤原良継が罪を一人で被ったため、今毛人は解官のみで助けられる。恵美押勝は翌天平宝字8年(764年)に乱を起こして滅びている(藤原仲麻呂の乱)。
天平宝字8年(764年)営城監に任じられ大宰府に赴く。同年、肥前守を兼ねる。天平神護元年(765年)大宰大弐に補任し、怡土城を築く専知官を兼ねる。
神護景雲元年(767年)都に戻り、造西大寺長官に補任され西大寺の造営にあたる。同年、左大弁を兼ねる。神護景雲3年(769年)因幡守を兼ねる。同年、従四位上に昇る。宝亀元年(770年)播磨守を兼ねる。同年、称徳天皇が崩御し、天皇の寵愛深かった太政大臣禅師道鏡が失脚、今毛人は道鏡を下野国薬師寺別当へ進発せしめる。同年、三たび造東大寺長官を兼ねる。宝亀2年(771年)正四位下に昇る。
宝亀6年(775年)今毛人は遣唐大使に任命された。宝亀7年(776年)4月、大使として節刀を賜り大宰府へまで行くが、11月になって大宰府から都へ還り節刀を返上する。宝亀8年(777年)4月、今毛人は再び節刀を賜り出発するが、羅城門までくると病になり、摂津に滞留する。今毛人の病は重く、副使の小野石根が大使の任務を代行することになり、同年6月、遣唐使船は出航した。今毛人は左大弁を辞して静養する。
宝亀10年(779年)大宰大弐に補任され大宰府に赴く。天応元年(781年)正四位上に昇る。
延暦元年(782年)帰京して左大弁に再任され、大和守を兼ねる。同年、従三位に昇る。延暦2年(783年)皇后宮大夫を兼ねる。
延暦3年(784年)桓武天皇は山城国長岡の地に遷都を計画。今毛人は同地を視察し、造長岡宮使に任じられる。
同年、参議に補任。延暦4年(785年)正三位に昇り、民部卿を兼任。延暦5年(786年)大宰帥を兼任。
延暦8年(789年)今毛人は70歳になり、骸骨を賜ること(致仕)を上表して許される。延暦9年(790年)死去、享年72。