八代英太
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
八代 英太(やしろ えいた、1937年6月2日 - )、本名は前島 英三郎(まえじま えいざぶろう)。昭和・平成期の政治家。自由民主党所属の元参議院議員・衆議院議員。参議院当選3回、衆議院当選3回。山梨県出身。現在、帝京平成大学教授。
[編集] 人物
山梨県立石和高等学校卒業後、1957年山梨放送にアナウンサーとして入社。1963年 山梨より上京しタレント活動を開始する。1973年 愛知県刈谷市にてステージから転落、脊髄を損傷して、以後車椅子の生活を送る。 東京都北区在住。
1977年 第11回参議院選挙全国区に無所属で出馬し84万票を獲得し当選。福祉政策の専門家として知られるようになる。田英夫、横路孝弘らと共にMPD・平和と民主運動の呼びかけ人になっていた。1983年、全国区が比例区に改められると、無所属候補は比例区からは立候補できなくなったため、八代は福祉党を結成、自ら代表となった。同年、第13回参議院選挙では福祉党の名簿1位で当選。ところが1984年、八代は自由民主党に移籍。自ら結成した党を捨てた行為もさることながら、政党で選ぶ比例代表制の趣旨として、移籍が認められたことも問題になった(比例区当選者の政党移籍制限が法制化されたのは2000年)。1989年の第15回参議院選挙では、自民党比例区2位の優遇を受け3選するが、1995年の第17回参議院選挙では16位に下げられ次点落選。1996年、第41回総選挙で衆議院に鞍替えし、小選挙区東京12区で初当選(ちなみに、参議院比例はのちに繰り上げ当選の資格を得たが、衆議院で当選したため辞退した)。以後3期連続当選。1999年の通信傍受法案(盗聴法案)審議では、反対派の宮崎学などから「盗聴法推進の立役者」の一人として批判された。同年10月、小渕第2次改造内閣で郵政大臣に就任(第1次森内閣でも再任)。この時期、議員として地域振興券に注力。2003年11月の第43回衆議院議員総選挙では、自身が「福祉」の他に次の事項等でつながりの深い公明党との選挙協力のため、比例東京ブロックに回る。
2005年7月5日の郵政国会では反対票を投じた。このため、2005年9月11日の第44回衆議院議員総選挙では、公明党の協力を背景に自民党の公認を得ようとしたがかなわず、自民党に離党届を出した後で無所属で東京12区から出馬。公明党の太田昭宏の対立候補となり、落選した。
著書に『八代英太の車いす郵政大臣奮戦記』(日本テレソフト,1999年)などがある。 現在は、帝京平成大学教授・政治団体明るい福祉を考える会(東京都板橋区)の代表を務め、下記公式ページによると、「世論優先・内閣支持率問題で、残念ながら復党への見通しはたっていない。」とのことである。[1]。
[編集] 公的場面での通名(芸名)使用
国会議員は国民の代表として立法に参画して行政にもの申す立場であり、行政機関の一員ではないため通名使用が認められているが、大臣・政務次官等に任ぜられた場合は、議員としての立場とは別に行政機関の一員として公文書を発し、時に大臣等の肩書きで国民の権利・義務・許認可を左右することがあるため、責任明確化の観点から芸名の使用は認められていない。このため、郵政大臣としての公文書等には一貫して本名の前島英三郎の名義が用いられた。
- 閣議口頭了解(1999年10月8日)は次のとおりである。
- 郵政大臣である八代英太(本名 前島英三郎)国務大臣の名前については、今後、政府代表等への任命行為及び許可等対外的な法律上の行為については前島英三郎名を使用し、それ以外は八代英太名を使用することとする。
|
|
|