田英夫
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生年月日 | 1923年6月9日 |
出身地 | 東京都 |
最終学歴 | 東京大学経済学部 |
前職 | ニュースキャスター |
役職 | 経済産業委員 |
世襲の有無 | 二世(地盤の継承無し) 祖父:田健治郎 |
選挙区 | 比例区 |
当選回数 | 6回 |
所属党派 | 日本社会党→ 社会民主連合→ 新党護憲リベラル→ 平和:市民→ 無所属→ 社会民主党 |
党の役職 | 経済産業部会長 |
会館号室 | 参議院議員会館406号室 |
ウェブサイト | 田英夫事務所 |
田英夫(でん ひでお、1923年6月9日 - )は、ニュースキャスター、参議院議員。勲一等旭日大綬章(2001年)。
[編集] 人物
貴族院議員や台湾総督を務めた田健治郎の孫として、東京に生まれる。学徒出陣で震洋特攻隊[1]に配属されるが、出撃命令を受ける前に終戦を迎えた。
1947年、東京大学経済学部卒業。共同通信社に入社、社会部、政治部記者(東京裁判等の取材にあたる)、1956年第一次南極観測隊報道担当隊員。
1960年共同通信社会部長、1962年文化部長を経て、同年11月TBSに入社。1962年10月から放送を開始した『JNNニュースコープ』の初代のメインキャスターとなり、1968年9月まで務めた。これが、日本独特の文化であるニュースキャスターの先駆けである。降板の原因は、西側のテレビメディアとしては初めてのベトナム戦争取材を北ベトナムで行い、それが反米的であると政府筋、自民党に映ったためである。
最後の放送では降板の経緯に触れることなく、「それではみなさん、また明日」を「それではみなさん、さようなら」としただけで、幕を閉じるなど、堅物な人物である。1970年同社を退職[2]。
後日談として、後の首相である自民党衆議院議員三木武夫が「田英夫君を励ます会」を帝国ホテルで主催し、同じく後の首相である中曽根康弘をはじめ、宇都宮徳馬など、多数の自民党議員も出席した。これは、政府与党の圧力により降板させられた田への同情のみならず、田の降板が自民党内リベラル勢力にも違和感のある出来事であったことを示すと言えよう。
[編集] 政治活動
1971年6月、第9回参院選に全国区から出馬(日本社会党)で192万票を獲得し、トップ当選。その後5期・30年に渡って議員を続け、その間に日本社会党→社会民主連合→新党護憲リベラル→平和:市民→社会民主党と所属を移している。
平和主義者としても高名で、南京大虐殺は実際にあったという立場から反戦運動を行なうなど、年齢からは想像できない活力の持ち主であり、バイタリティもある。一方、落選時に「私が落ちたことによって日本は戦争に一歩近づいた」と発言したりと、尊大な印象を与えることもある。
社会党時代は、穏健な社会民主主義者として、社会主義協会に反対し、社会民主連合を結成するなど、左派陣営の中では「右派」と見なされていたが、民主党の成立後はむしろ社会党の後身である社会民主党に復帰するなど、むしろ「左派」色を前面に出して活動している。かつては横路孝弘、八代英太らと共に「MPD・平和と民主運動」呼びかけ人でもあり、事実上の中心人物でもあった。MPDは後に「大衆党」の母体となり、さらに大衆党は「市民の党」に改称する。
マキャベリストでもあり、時流によって大幅な政策転換を繰り返している。社民連時代は保守政党の新自由クラブや進歩党と統一会派を結成、比例区の名簿も共同で出していた。長年対立してきた鈴木俊一東京都知事を自公民相乗り候補の対抗馬として支持・支援したり、自社さ連立政権についてはいち早く支持を表明した。さらには社会党最左派と言われた伊東秀子を北海道知事選挙に自民党単独推薦で擁立したりもした。これらの行動は彼とさまざまな社会運動を共にしてきた支持者・支援者からは裏切りとも取られ、下元孝子東京都議は代表を務めていた大衆党を離党したり、新党護憲リベラルは「平和:市民」と憲法みどり農の連帯に分裂したりと、数々の対立・分断の原因ともなった。
現在は所属政党と同じく、政界での影響力は衰えている。しかし、多くの左派的な思想家からは尊敬の念を持って遇せられている。昭和の反戦の遺物と揶揄される一方で、平和主義の最後の砦と敬愛されることもある政界の長老の一人である。
2001年7月の第19回参院選では戦争に対する危惧から、以前より表明していた引退を撤回して比例代表区(社会民主党)から出馬するも落選。しかし、田嶋陽子議員の辞職に伴って2003年4月に繰り上げ当選となり、6期目を務めることになった。2004年の年金国会においては、本会議における年金法案採決を阻止を目的として与党出身者を議長職から退かせた場合に、最年長議員が仮議長を勤める国会の慣例として名前が浮上していた。しかし、副議長の散会宣言に同調して再出席しなかったこともあるが、最年長議員が仮議長に就任する慣例がないと参院事務局から見解を出されて、仮議長には就任できなかった。
2005年4月からは療養のために国会に登院していなかったが、2005年8月には郵政国会において郵政法案の賛成派と反対派が拮抗し、1票の価値が重要視されるようになると、4ヶ月ぶりに登院し反対票を投じた。 2006年12月、来夏の参院選に出馬せず、今期限りで引退することを決めた。
[編集] 脚注
- ^ 人間兵器 震洋特別攻撃隊
- ^ 「ハノイの微笑」オンライン復刻版 (田英夫公式サイト)
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