内藤忠興
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内藤 忠興(ないとう ただおき、1592年3月14日(天正20年2月1日) - 1674年11月10日(延宝2年10月13日))は、江戸時代前期の大名。磐城平藩の第2代藩主。初代藩主・内藤政長の長男。官位は従四位下、帯刀。正室は酒井家次の娘。側室に小山田信茂の娘香具姫。子に義概、遠山政亮、土方雄次室らがいる。養女は堀直景室、諏訪忠晴室。
慶長19年(1614年)、大坂冬の陣のときに父と共に安房国の留守を命じられたが、血気盛んで武勇に優れていた性格の持ち主である忠興は兵を率いて伏見城にまで参じ、当時、徳川家康の側近中の側近であった本多正信に参陣を頼み込んだという。正信は家康に相談し、家康はこれを喜んで許し、井上正就配下のもとで参陣させている。
慶長20年(1615年)3月、父が1万石の加増を受けたとき、忠興も冬の陣における功績で1万石の所領を与えられた。同年の大坂夏の陣では酒井家次に従って参陣して武功を挙げ、この功により1万石を加増された。元和8年(1622年)、政長が磐城平藩7万石に移封されたとき、忠興は陸奥国泉藩に2万石を領する大名となった。寛永11年(1634年)、父が死去すると家督と所領を受け継ぎ、それまでの所領であった泉は弟の政晴に相続させた。
その後、忠興は藩政に力を注ぎ、新田開発や検地などの農業政策、厳格な税徴収などを行ない、平藩の石高を実質的に2万石も増加させた。寛文10年(1670年)、長男の内藤義概に家督を譲って隠居し、4年後の延宝2年(1674年)10月13日に83歳で亡くなった。法名は高岳院殿円誉月心長山大居士。墓地は神奈川県鎌倉市の光明寺。
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