磐城平藩
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磐城平藩(いわきたいらはん)は、陸奥磐城地方を治めた藩。藩庁は磐城平城(現在の福島県いわき市平)。
磐城地方は古くから岩城氏の支配下にあったが、関ヶ原の合戦で西軍についたために領地を没収された。岩城氏は後に川中島藩を経て出羽亀田藩に移っていった。
磐城平藩は、鳥居、内藤、井上、安藤の各家が治めたが、幕末に公武合体を進めた老中・安藤信正の所領として知られている。
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[編集] 略史
[編集] 鳥居時代
- 岩城氏が去った後に磐城を支配したのは鳥居忠政である。磐城4郡のうち10万石が与えられた。岩城氏の居城は大館城であったが、その東に新たに城を築いた。それに伴い城下町の再編を行った。今の八幡小路付近にあった紺屋町等を移して家臣の屋敷にし、高台に数多くあった寺社を移し、そこを城郭にした。築城の際、治水のため丹後という翁を人柱とした話があり、今でも丹後沢の名前で残っている。
[編集] 内藤時代
- 政長が没し、その跡を継いだのが内藤忠興である。継いだ翌年から約10年にわたって領内の総検地を行い、これによって2万石の増収をもたらした。寛永15年(1638年)の寅の年に集中して行われたので、「寛永寅の縄」といわれる。慶安2年(1649年)には、平藩にとって最初の成文法である「家中法度」「諸代官郷中取扱之定」「郷中御壁書」を制定した。また、新田開発も盛んで、用水路の普請を行った。その代表的なものが小川江と愛谷江である。小川江は、郡奉行澤村勘兵衛勝為により開削され、小川から四倉まで三十キロメートル、三十一ヶ村におよぶ。愛谷江は愛谷村から沼之内村まで二十三カ村を潤した。
- 忠興が隠居して藩主になったのが内藤義概である。若い頃から和歌・俳諧に傾倒していたため、藩政を小姓の松賀族之助に委譲してしまった。このことが後の平藩小姓騒動のもとになってくる。
- 義概のあと、義孝、義稠、政樹の代まで天災や普請のため財政が圧迫していた。そんな中、元文3年(1738年)9月に百姓一揆が起こった(元文百姓一揆)。それが理由で処罰的な意味もあり、延享4年(1747年)、内藤家は延岡に移った。
[編集] 井上時代
- 内藤家の後に来たのが井上正経である。平藩を支配したのは10年間のみで、史料は少ない。
[編集] 安藤時代
- 井上家の後には加納藩主安藤信成が入封した。入封後、藩校施政堂を八幡小路に創設し藩士の子弟を教育した。漢学を主とし、撃剣を従とした。四書五経・国語・小学・通鑑・習字を中心に教え、後に、兵法・洋学も取り入れた。春秋2回の試験で成績優秀者には褒賞を与えた。明治4年(1871年)に廃止になるまで、磐城の最高学府的な存在であった。
- 歴代藩主の中で最も有名なのは、第5代藩主・安藤信正である。桜田門外の変の後、老中として幕政を主導したが、文久2年(1862年)の坂下門外の変で失脚、強制隠居処分に処されて、所領も4万石に削減された。しかし戊辰戦争でも、信正は佐幕派としての地位を貫いた。
[編集] 磐城平藩歴代藩主
[編集] 鳥居家
譜代 12万石
[編集] 内藤家
譜代 7万石
[編集] 井上家
譜代 3万7千石
[編集] 安藤家
譜代 6万7千石→4万石