加藤哲郎 (野球)
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加藤 哲郎(かとう てつろう、1964年4月12日 - )は元プロ野球選手。ポジションは投手。
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[編集] 来歴・人物
宮崎日大高校から1982年のドラフトで近鉄バファローズから1位指名され、1983年入団。3年間は2軍暮らしが続いたが1986年初登板すると徐々に頭角を現し、1989年のリーグ優勝には先発として大きく貢献した。1989年の日本シリーズに出場。球威の衰えから1994年、広島東洋カープに移籍するが1年で戦力外通告を言い渡される。1995年、福岡ダイエーホークスに移籍するがかつての球威は取り戻せず同年限りで引退し野球解説者になる。以前は朝日放送ラジオの解説を担当していた。現在はタレントとして活動中。
[編集] 巨人はロッテより弱い
1989年の日本シリーズは近鉄と巨人の試合となった。第1戦と第2戦は近鉄が勝利。そして、10月24日の第3戦、加藤は近鉄の先発投手として登板。その試合も近鉄が勝利して3勝目を上げ、日本一まであと1勝と王手をかけた。加藤は第3戦の勝利投手となったヒーローインタビューにおいて「シーズン中のほうがよっぽどしんどかったですね、相手も強いし」と発言した。試合直後の談話で「巨人に迫力がなかった」と発言した際に、インタビュアーが「ロッテ(その年のパ・リーグ最下位)よりも?」と聞いてきたので、加藤は「そうですね」と相槌を打った。この一連の発言を総合して「巨人はロッテより弱い」という文句で大々的に報道されてしまい、巨人の選手を奮起させた。
第4戦に先発投手で登板して勝利した巨人の香田勲男は、ヒーローインタビューで「うちは3連敗して言われたい放題でしたからね。気合入れました」とコメント。第5戦でも、それまで不振にあえいでいた原辰徳が満塁ホームランを放つなど、巨人が底力を発揮。そしてあっと言う間に対戦成績は3勝3敗になった。迎えた第7戦には加藤が先発として登板。しかし加藤は2回表駒田徳広にトドメを刺されるソロホームランを浴び、駒田から「バーカ!」と罵られた。加藤はその回途中で降板。駒田の本塁打を機に巨人は近鉄投手陣をKO。9回表に引退を表明していた中畑清が引導を渡し、ゲームセット。最後は宮本和知が抑え、巨人は1981年以来8年ぶりに日本一に輝いた。
加藤はこの発言によって巨人ファンを敵に回すという不幸に見舞われたが、彼が近鉄を強い球団へと導いたことは事実であった。彼はその後しばらく近鉄に在籍し、広島・ダイエーと所属球団を移籍したが球威の衰えは隠せずほどなくしてプロ選手を引退することとなった。
この発言についてはさまざまな意見があるが、前年1988年に、勝利投手の権限まであと一死の場面で途中交代させられたことや、たった1イニングだけの消化試合(注下記参照)に登板したこと、さらには10.19という球史に残る大事件であってもなおテレビ中継がためらわれた当時の野球界の事情をも含めて解する必要があり、また加藤の発言は暴言ではないとする意見もこの文脈から発生していることに注意すべきである。
なおこの発言は現役引退後、野球解説者になっても影響している。加藤は専属契約局の朝日放送(ABC)が全国ネットでテレビ中継する阪神甲子園球場での阪神対巨人戦の解説には一切出演しておらず(ラジオでは数回あった)、唯一呼ばれたのは古巣の近鉄が大阪ドームでヤクルトと対戦した2001年の日本シリーズだけである。とは言え優勝した年以外にはあまり活躍できず、プロ通算17勝の成績で引退後も野球解説者となれたのもこの発言のおかげと言って過言ではなく[1]、加藤にとってこの発言が必ずしも身の不幸ばかりを招いたとは言い難く、このことがきっかけで「記憶に残る投手」となったとも言える。
後にテレビ番組で、日本シリーズ終了後に近鉄球団に約300通手紙が届き、そのうち約100通は巨人ファンからの抗議の内容で、残りの約200通はアンチ巨人ファン(阪神あるいはその他のチームのファン)から「よく言ってくれた、ありがとう」など、加藤の発言を称える内容の手紙が届いたとコメントしている。
なお本人は現在でも「巨人はロッテよりも弱かった」と言い張っているらしく、一度関西の番組で駒田と「おでん屋で仲直りする会」が開かれているが、やはり「いや、ロッテよりも弱かった」と発言したため、お互いの間に過去を清算出来ていないと駒田は語っている。ただし駒田とは時折バラエティ番組などでも競演することがあるので、さほど関係は悪くないようである。
[編集] 3分でシメる
1988年のいわゆる10.19の第2試合でも投げている。10回表終了時、加藤が登板したが、当時の引き分け規定(第2試合の9回以降のイニング終了時に4時間を越えるとその時のイニングで試合終了となる)にはまだ3分残されていた。しかし、1回を3分で終わらせるのは事実上不可能のため、優勝の可能性がなくなっていた。それでも、加藤は「時間がもったいない」と投球練習を省略、一塁ベンチ(ロッテ)に「早く出てこい、3分でシメる」と言ったという。