加藤謙一
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加藤謙一(かとうけんいち、1896年-1975年6月30日)は昭和期の雑誌編集者。戦前は『少年倶楽部』の編集長を務め、戦後は独力で起こした学童社から『漫画少年』を編集・刊行し、多くの漫画家を世に送り出した。
同姓同名の裁判官(東京地裁所属)は無関係。
[編集] 経歴
1896年、青森県弘前市に生まれる。旧制弘前中学校(現・青森県立弘前高等学校)卒業後、小学校の代用教員を経て当時の青森師範学校(現在の弘前大学教育学部)に入学。卒業後、再び地元で代用教員となるが、児童雑誌の編集者を志して上京。講談社に採用され、わずか1月半後に『少年倶楽部』の編集者に抜擢される。(加藤の作成したガリ版刷りを見た社長がその出来の素晴らしさに感嘆したためといわれる)
『少年倶楽部』では、同郷の佐藤紅緑を説得して少年小説「ああ玉杯に花受けて」の連載にこぎ着けた。また漫画の重要性を認識しており、田河水泡の「のらくろ」や島田啓三の「冒険ダン吉」といった人気作を掲載した。さらに工作付録などのアイディアも盛り込み、『少年倶楽部』を人気雑誌に育て上げ、名編集長とうたわれた。
しかし太平洋戦争後、公職追放に指名され、講談社からの退社を余儀なくされる。ならばと加藤は独力で出版社「学童社」を設立し、新たな雑誌『漫画少年』を創刊して自ら編集長となった。
『漫画少年』では手塚治虫の「ジャングル大帝」を連載、長谷川町子の「サザエさん」も一時期掲載したことがある。また、加藤は読者投稿に力を注ぎ、漫画家志望者の作品掲載にページを割いた。その中から戦後を代表する多くの漫画家が誕生した。(詳しくは漫画少年の項を参照)
しかし、加藤の奮闘もむなしく他の雑誌との競争に敗れた『漫画少年』は休刊に追い込まれ、加藤はこれを期に編集者から退いた。
[編集] 評伝
- 「『漫画少年』物語-編集者加藤謙一伝」(加藤丈夫著、2002年、都市出版)
- 著者の加藤丈夫は加藤謙一の四男で、執筆当時は富士電機会長。
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