千種忠顕
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千種 忠顕(ちぐさ ただあき、生年不詳 - 1336年7月13日(延元元年/建武3年6月5日))は、鎌倉時代から南北朝時代の公家、武将である。 父は六条有忠。千種顕経は子。
[編集] 経歴
公家としての学問よりも武芸を好んだために父・有忠に義絶される。更に後醍醐天皇に仕えてその近臣になったために皇太子邦良親王の早期即位を画策する父とは敵対関係になった。1332年(元弘2年/正慶元年)に、前年の元弘の変の戦後処理で鎌倉幕府により後醍醐が隠岐島に流罪された時も随行し、翌年、名和長年の助けで隠岐を脱出した後に足利尊氏や赤松則村(円心)らとともに京都の六波羅探題攻めに参加する。鎌倉幕府滅亡後に開始された建武の新政では雑訴決断所の役人を務めたが、新政の混乱の責任を取らされ、万里小路宣房らとともに出家させられている。足利尊氏が新政から離反すると新田義貞や北畠顕家らと京都から追う。九州で勢力を整えて翌年に再び京都へ迫った足利方と戦い、近江国西坂本(滋賀県大津市)で足利直義の軍に敗れ戦死する。
建武の新政では忠顕と結城親光、楠木正成、名和長年を合わせて「三木一草」と称された。
[編集] 関連項目
- 千種家
- 南北朝時代 (日本)の人物一覧
カテゴリ: 武士 | 鎌倉時代の人物 | 南北朝時代の人物 (日本) | 1336年没