楠木正成
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楠木 正成(くすのき まさしげ、永仁2年(1294年) - 延元元年/建武3年5月25日(1336年7月4日))は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。幼名は多聞丸(たもんまる)。兵衛尉→従五位下・検非違使尉・左衛門尉・河内守・摂津守。恩賞方・武者所・記録所寄人・雑訴決断所奉行。贈正一位(1880年)。父は楠木正遠と伝えられる。
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[編集] 楠木氏の出自
楠木氏は、橘諸兄を祖とする橘氏の、あるいは橘遠保を祖とする伊予国の橘氏の流れを汲み河内国の豪族とされるが、河内には楠木姓の由来となるような地名はなく、北条得宗家被官の一族で、得宗領の河内へ移ってきたとする説、武蔵国(関東地方)の出身であるとする説などがある。
また、1962年(昭和37年)に三重県上野市の旧家から発見された上嶋家文書(江戸時代末期の写本)によると、伊賀・服部氏族の上嶋元成の三男が猿楽(能)役者の観阿弥(觀阿彌)で、その母は楠木正成の姉妹であるという。つまり正成の甥が観阿弥ということになる(これは偽系図ともいわれている)。ちなみに観阿弥の息子世阿弥(世阿彌)は、先祖は服部氏と自称していた。
[編集] 生涯
河内国石川郡赤坂村(現大阪府南河内郡千早赤阪村)に生まれたと思われる。前半生はほとんど不明で、1331年(元弘元年)臨川寺領和若松荘「悪党楠木兵衛尉」として史料に名を残しており、鎌倉幕府の御家人帳にない河内を中心に付近一帯の流通ルートで活動する「悪党」とよばれる在地の豪族であったと考えられている。または土豪。 この年に後醍醐天皇の挙兵を聞くと下赤坂城にて挙兵(赤坂城の戦い)し、湯浅定仏と戦う。後醍醐と正成を結びつけたのは、伊賀兼光、あるいは真言密教の僧である文観と思われる。後醍醐が隠岐島に流罪となっている間にも、大和国(奈良県)の吉野などで戦った護良親王とともに、河内国の上赤坂城や金剛山中腹に築いた山城、千早城に篭城してゲリラ戦法を駆使して幕府の大軍を相手に奮戦する。(この際に有名な糞尿弾を使用している) 1333年(元弘3年/正慶2年)、正成らの活躍に触発されて各地に倒幕の機運が広がり、足利尊氏や新田義貞、赤松円心らが挙兵して鎌倉幕府は滅びた(元弘の乱)。
後醍醐天皇の建武の新政が始まると、正成は記録所寄人、雑訴決断所奉行人、河内・和泉の守護となる。建武の新政においては、正成と結城親光、名和長年、千種忠顕をあわせて「三木一草」と併称された。1335年の中先代の乱を討伐に向かった尊氏がそのまま新政に離反し、尊氏追討の命を受けた義貞が箱根・竹ノ下の戦いに敗北して足利軍が京へ迫るが、北畠顕家らと連絡して足利方を京より駆逐する。翌年に足利方が九州で軍勢を整えて再び京都へ迫ると、正成は後醍醐に新田義貞を切り捨てて尊氏と和睦するよう進言するが献策は後醍醐に容れられず、1336年(延元元年/建武3年)に義貞の麾下での出陣を命じられ、湊川の戦い(兵庫県神戸市)で足利直義の軍と戦い敗れて、弟の楠木正季と刺し違えたとされる。法名:霊光寺大圓義龍卍堂。
彼の息子である小楠公こと楠木正行(まさつら)を筆頭に、楠木正時、楠木正儀(まさのり)らも正成と同じく南朝方について戦った。
[編集] 後世の処遇と影響
南朝寄りの古典『太平記』では正成の事跡は強調して書かれているが、足利氏寄りの史書である『梅松論』でさえも同情的な書き方をされている。理由は、戦死した正成の首(頭部)を尊氏が「むなしくなっても家族はさぞや会いたかろう」と丁寧に遺族へ返還していることからも推察できるように、尊氏自身が清廉な彼に一目置いていた為であろう。今日で言うゲリラ戦的戦法を得意とした正成の戦法は、江戸時代に楠木流の軍学として流行し、正成の末裔と称した楠木正辰(楠木不伝)の弟子だった由井(由比)正雪も南木流軍学を講じていた。
[編集] 死後の楠木正成
1559年(永禄2年)、正成の子孫と称した楠木正虎によって朝敵の赦免を嘆願され、正親町天皇の勅免を受け朝敵でなくなり、また江戸時代には水戸学の尊皇の史家によって、忠臣として美談化されはじめる。江戸時代後期には尊皇家によって頻繁に祭祀されるようになり、その動きはやがてのちの湊川神社の創建に結実し、他方で靖国神社などの招魂社成立に大きな影響を与えることとなる。明治になり南北朝正閏論を経て南朝が正統であるとされると大楠公と呼ばれ、講談などでは『三国志演義』の諸葛孔明の天才軍師的イメージを重ねて語られ、修身教育でも祀られる。戦後は価値観の転換と歴史学における中世史の研究が進むと悪党としての性格が強調されるようになり、吉川英治は『私本太平記』の中で戦前までのイメージとは異なる正成像を描いている。
[編集] 墓所・霊廟・史跡
- 史跡
- 大楠公首塚
- 南木神社
- 楠妣庵観音寺