協和銀行
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株式会社協和銀行(きょうわぎんこう、The Kyowa Bank, Ltd.)は、1948年から1991年まで存在した日本の都市銀行。1991年、埼玉銀行と合併し協和埼玉銀行となった。現在のりそな銀行の前身の1つ。
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[編集] 歴史
[編集] 日本貯蓄銀行
1945年5月、以下の9つの貯蓄銀行が合併して日本貯蓄銀行が設立された。 日本貯蓄銀行は戦時体制の下、貯蓄増強といった国策を遂行するために並立する大手貯蓄銀行を強制的に統合し成立した銀行である。従って、母体行によって所在地・営業形態などは全く異なっていた。
- 不動貯金銀行
- 1900年、牧野元次郎により設立された貯蓄銀行。当初「不動貯金」(据置貯金。現在の定期預金だが期間が超長期のもの)、「出世貯金」(抽選で利子を先払いする貯金)を考案したが失敗。その反省から「三年貯金」(のち「ニコニコ貯金」。現在の定期積金)を開始。外務員が預金者を勧誘し、また定期的に訪問して集金するスタイルが受け、業績が拡大。大黒信仰を基にした「ニコニコ主義」をモットーに日々の貯蓄の重要性を外務員を通じて預金者に説いた牧野の経営手腕により、合併直前には全国規模で最大手の貯蓄銀行となっていた。
- 内国貯金銀行
- 三井銀行出身の前山久吉の手により開業した貯蓄銀行。前山は零細預金者の預金を取りまとめ株式市場等で巧みに運用して好成績を上げ、その結果内国貯金銀行は国内有数の機関投資家としてその名を高めていた。
- 安田貯蓄銀行
- 安田財閥系の貯蓄銀行。当初金城貯蓄銀行として金沢市で開業。まもなく東京に移駐。安田銀行(現在のみずほ銀行、みずほコーポレート銀行)と関係が深かったが、相互補完の関係はなくお互い独自の道を歩み、遂に合併しなかった。なお、二大貯銀の一方である不動貯金銀行が外務員中心の営業を行っていたのに対し、安田貯蓄銀行は店舗中心の営業を行っていた。
- 東京貯蓄銀行
- 第一銀行(渋沢財閥)系の貯蓄銀行。第一銀行が三井財閥の手に戻りそうになった明治中期、第一銀行首脳陣が次善策として設立し、身代わり銀行として開業したもの。その後第一銀行は三井からの独立を守り、以降第一銀行と店舗・窓口を共用するいわゆる共同店舗を設置するなど、同行の補完的存在として機能していた。
- 第一相互貯蓄銀行
- 第一生命保険社長の矢野恒太が興した貯蓄銀行。矢野が推奨する「相互主義」をモットーとし、銀行の収益はまず預金者への利息へ振り分けた。生命保険の発想や営業を貯蓄銀行に持ち込み、保険加入者が預金者となるケースも多く事実上第一生命の銀行部門を形成していた。
- 日本貯蓄銀行
- 合併銀行と同名であるが、存続銀行ではなく全くの別銀行。名古屋市に本店を置き、中京圏一帯に店舗網を持ち、東海銀行(後のUFJ銀行→現在の三菱東京UFJ銀行)と補完関係にあった。
- 大阪貯蓄銀行
- 山口財閥系の貯蓄銀行。大阪市に本店を置き、三和銀行(後のUFJ銀行→現在の三菱東京UFJ銀行)と補完関係にあった。
- 摂津貯蓄銀行
- 岸本財閥系の貯蓄銀行。大阪市に本店を置いた。
- 日本相互貯蓄銀行
- 第一相互貯蓄銀行の成功を見て、日本生命保険の関係者が興した貯蓄銀行。大阪市に本店を置き、近畿地方に店舗網があった。
この他、横浜市に本店を置く都南貯蓄銀行が統合に参加する予定であったが、結局横浜興信銀行(現在の横浜銀行)と合併する事で不参加となった。
[編集] 協和銀行
1948年、戦後高まったインフレーションが強まり、公社債などに資金運用が限られた貯蓄銀行は軒並み逆ざや状態となり、遂に民間の貯蓄銀行は経営が成り立たなくなってしまった。日本貯蓄銀行も普通銀行に転換して協和銀行と改称。市中金融に進出して経営改善を図った。
以降、協和銀行は全国各地に点在していた店舗網[1]を再編。地方店舗[2]を整理する一方、首都圏の住宅地などに集中して店舗を開設。ユリの花をトレードマークとし、リテールバンクに特化した経営を続けた。
1981年より、マスコットキャラクターにディック・ブルーナのミッフィー(うさこちゃん)を起用。一般に「ミッフィーの銀行」として知られ、顧客獲得の決め手となった。なお、埼玉銀行との合併後のあさひ銀行でも引き続きミッフィーが使用された。
合併行でもあるため、長らく日銀出身者が頭取を務め、また、大企業のメインバンクにはなれず、常にサブバンクの地位に甘んじていた。このため、中堅企業等への融資に注力をしていくが、安宅産業、三光汽船等の経営破綻により、損害をこうむった事例も少なくなかった。
1991年4月、埼玉銀行と合併して協和埼玉銀行(翌年からあさひ銀行)となった。