吉良義周
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吉良 義周(きら よしちか、貞享2年2月22日(1685年3月26日) - 宝永3年1月20日(1706年3月4日))は江戸前期の高家旗本。忠臣蔵で有名な吉良上野介の跡継ぎである。通称は左兵衛(さへえ)。
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[編集] 生涯
[編集] 幼少期
貞享2年(1685年)2月22日、第四代出羽国米沢藩主上杉綱憲の次男として誕生。母は側室お要の方(茨木氏)。第五代藩主上杉吉憲は兄、上杉新田藩初代藩主上杉勝周は弟にあたる。幼名は春千代。
彼の父親である上杉綱憲は、もともと吉良上野介義央の嫡男であったが、母が上杉綱勝の妹であった関係から男子がなかった上杉家に養子に入って上杉家の家督を継いでいた。
その後、吉良義央には三郎という子が誕生し、この子が吉良家嫡男となっていたが、貞享2年(1685年)に夭折してしまう。そのため今度は吉良家に世継ぎがいなくなってしまった。そこで上杉綱憲は、元禄2年(1689年)12月9日、次男春千代を吉良家へ養子に出すことを決定した。こうして上杉春千代は、吉良左兵衛義周と名を改めると、元禄3年(1690年)4月16日、米沢城から江戸へ移り、鍛冶橋吉良邸に入ることとなった。時に義周は5歳。
[編集] 吉良家の相続と改易
元禄9年(1696年)11月21日、将軍徳川綱吉にはじめて拝謁。元禄14年(1701年)3月14日、祖父義央が浅野長矩から殿中刃傷を受け、12月12日、義央は事件の影響で隠居した。これに伴い、義周が吉良家の家督を相続して表高家に列した。赤穂浪士らによる吉良上野介邸討ち入りのあった元禄15年(1702年)12月の際には義周は18才であった。義周も自ら武器をとって応戦したものの、不破数右衛門(一説に武林唯七)に面と背中を斬られてそのまま気絶してしまった。しかし吉良公子と気づかなかったのか、息子には興味はなかったのか、そのまま捨て置かれて首は取られずにすんだ。
事件後、義周は、すぐに家臣の糟谷平馬を使者にして赤穂浪士が討ち入ってきた旨を老中稲葉正通邸に届け出ている。その後、元禄16年(1703年)2月4日に義周は幕府評定所に呼び出され、義周の当日の対応は「不届き」として吉良家改易のうえ、信濃国諏訪藩主諏訪安芸守忠虎にお預けを言い渡された。尚同日に赤穂浪士たちが切腹している。幕府としては喧嘩両成敗のつもりだったと思われる。
[編集] 晩年
2月11日、諏訪藩の者130名に護送されて江戸を出発するが、このとき義周が連れて行くことを許された家臣は、左右田孫兵衛重次・山吉新八郎盛侍の2名のみ、また荷物も長持3棹とつづら一個だけだった。諏訪藩高島城についた後は南丸に幽閉されたが、高家のご子息ということで諏訪藩藩士たちは「左兵衛様」と敬称した。たばこも許され、衣服や蚊帳も与えられた。ただし自殺を恐れてかみそりなどは与えられなかった。義周の前へ出る藩士も帯刀を禁止された。諏訪家では、義周の処遇について度々幕府に書簡を送って細々と指示を仰いでいる。また義周も、孫兵衛も、新八郎も、高島城へ到着した後、たびたび病気になっている。どうやら高島城南丸一帯に蚊が多かったことが原因のようである(マラリアか?)。
特に義周は、「武芸等不得手」と文献に特筆されているように、生来から虚弱な体質であったため、病で寝込む事が多く、宝永2年(1705年)10月からは完全に寝たきりとなってしまった。さらにこの頃、宝永元年(1704年)6月には実父上杉綱憲が死去、ついで8月8日には養母(祖母)梅領院も死去と、身内の死が重なった。これらの心労も追い討ちをかけたと思われる。宝永3年(1706年)1月19日に危篤に陥り、20日にそのまま死去した。享年21。2月4日に幕府の検死役石谷七之助清職の検死を受けた後、地元の法華寺に葬られた。なお遺臣の左右田孫兵衛・山吉新八郎の両名は、義周の石塔を自然石で立てて欲しいと代金三両を法華寺に納めている。
[編集] 関連項目
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