吉野山
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吉野山(よしのやま)は奈良県中央部にある標高455mの山。国の名勝。
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[編集] 概要
古くから花の名所として有名で、大峰信仰登山の根拠地であり、日本史上の転回点にもたびたび登場している。この一帯は1936年吉野熊野国立公園に指定されている。さらに吉野山・高野山から熊野にかけての霊場と参詣道が2004年7月、『紀伊山地の霊場と参詣道』としてユネスコの世界遺産に登録された。日本舞踊の吉野山については「吉野山と芸術」の節を参照。
[編集] アクセス
近鉄吉野線吉野駅下車、駅の近くから山上までロープウェイあり。
[編集] 花の吉野山
吉野山には古来桜が多く、山すそから順に 下・中・上・奥の4箇所に約30,000本の桜の原種である白山桜(シロヤマザクラ)が密集する名所である。いずれも「一目千本」と呼ばれ、おのおの「下千本(しもせんぼん)」、「中千本(なかせんぼん)」、「上千本(かみせんぼん)」、「奥千本(おくせんぼん)」と称えられている。4月初旬から末にかけて山下から山上へ順に開花してゆく。この期間おびただしい花見客が吉野を訪れる。
[編集] 信仰登山の吉野山
吉野山は、大峰山を経て熊野へ続く山岳霊場の北の入口である。役行者(役小角:えんのおづぬ)が刻んだとされる蔵王権現を本尊とする大峰修験宗総本山金峯山寺(きんぷせんじ)がある。修験道練行の山々を峰中(ぶちゅう)と呼び、吉野山から大峰山を通り熊野まで続いている。南の熊野を発して吉野に至るのを順峰、吉野からの縦走を逆峰と呼んだ。この道も役行者が開いたとされている。
近くに水の分配を司る、吉野水分(みくまり)神社がある。
[編集] 吉野山と芸術
[編集] 雪の吉野山
吉野山が現在のような桜のイメージで知られるようになったのは、平安時代後期あたりからと考えられている。それまでは、「春の訪れが遅く雪深い」イメージが強く、古今和歌集において、紀友則の「み吉野の山べにさける桜花雪かとのみぞあやまたれける」(春歌上)と詠まれているのが桜についての初見ではあるが、この頃はまだ、百人一首にも選出されている、坂上是則の「あさぼらけ有明の月とみるまでに吉野の里にふれる白雪」(冬歌)に代表される雪の歌が優勢であった。
[編集] 雪から桜へ
平安期に修験道が発達するにつれ、開祖である役小角の奉じた蔵王権現の神木として桜が尊重されたことから、吉野山の桜が徐々に名を上げ(積極的に植樹を行い、爆発的に数が増えたという説もある)、新古今和歌集の時代になると、桜と雪はすっかり立場が逆転してしまっていた。新古今集の代表的歌人で「願はくば花の下にて春死なむその如月の望月の頃」と詠った西行法師も吉野をたびたび訪れ多くの秀歌を残した。山上には「西行庵の跡」もある。
[編集] 日本舞踊
江戸時代に初演された人形浄瑠璃・歌舞伎の『義経千本桜』は大当りとなり、劇中の舞踊「道行初音旅(みちゆきはつねのたび)」も好評を得て、吉野山の愛称で呼ばれる。商業演劇以外の場でも踊られる機会も多く日本舞踊の代表的な演目となっている。義太夫節の他、常磐津節・富本節・清元節の作品がある。
[編集] 歴史に登場する吉野山
吉野山は日本史上の節目に、史実や伝説としてたびたび登場している。
- 神武天皇は東征に際し、熊野から吉野を通って大和に入ったと言われている。
- 応神天皇が吉野を訪れた時、吉野の国主(くず)の歓待を受けた。古事記
- 672年大海人皇子(のちの天武天皇)は、当時の大津の都を離れて出家して吉野山に隠棲したが、兄の天智天皇の死の知らせを受けて美濃へ脱出し兵を上げ、天智天皇の子の大友皇子を倒して政権を握った。壬申の乱
このとき大海人皇子が吉野について詠んだ歌。「よきひとのよしとよくみて、よしといひし、よしのよくみよ、よきひとよくみつ」(万葉集)は有名。
- 690年前後、持統天皇は吉野を愛し宮滝に離宮を作り、30回以上も訪れた。同行した柿本人麻呂らは、長歌を残している。
- 源頼朝の追討を受けた義経・弁慶らが吉野山を通って東国へ脱出したと言われており、吉野山内にもいくつか旧跡がある。
- 1336年後醍醐天皇は神器を持って京都を逃れ、吉野山に別の朝廷を置いた。これ以後1392年までが南北朝時代で、吉野朝廷には後村上天皇・長慶天皇・後亀山天皇の南朝側天皇が続いた。この時期の多数の戦乱を受けて、「歌書よりも軍書に悲し吉野山」と言われた。
[編集] 吉野温泉
吉野山には十数件の旅館、民宿そして宿坊もある。 吉野山中の吉水院の近くに湧く。泉質は炭酸鉄泉や炭酸水素泉で・外傷・貧血に効能がある。
[編集] 唱歌における吉野山
1900年(明治33年)に作詞された「鉄道唱歌第五集 関西・参宮・南海篇」(大和田建樹作詞)では、3番に渡って吉野山が歌いこまれた。高野山・和歌山と共に、作者の歴史・景勝好みが影響しているものと見られている。