国鉄C53形蒸気機関車
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C53形蒸気機関車(C53がたじょうききかんしゃ)は、日本国有鉄道(国鉄)の前身である鉄道省がアメリカから輸入したC52形を解析の上、国産化した3シリンダー型のテンダー式蒸気機関車である。
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[編集] 開発の背景
3シリンダー機とは、台枠の左右両側だけではなく車両中央線上にもほぼ同型のシリンダーを持つ蒸気機関車である。シリンダーの数を増やすことにより、通常の蒸気機関車に比べ牽引力が増す[1]。
大正時代は客車が大型化し、ボギー車が主流となったが、重量やコストの事情で車体の材料としては相変わらず木材が用いられていた。その折1926年9月23日に山陽本線において特急列車が豪雨による築堤崩壊により脱線転覆、車両は大破し、多数の犠牲者を出した。この列車は当時の国際連絡ルートの一翼を担う最高級列車であり、もし客車が鋼製車体であったならば死傷者数は激減していたのではないかと推定され、世論は紛糾した。
そこで1927年より、木製車と比較して高額ではあったが客車の鋼製化が推し進められることとなった。それは列車重量の約20%増大を意味しており、従前の主力大型機関車であるC51形でも力不足となることが見込まれた。当時の技術では2シリンダー機関車としてはC51形を上回る性能を持つ機関車を製造することは困難と判断され、鋼製客車けん引用としては当時諸外国で実用化されていた3シリンダー機関車を採用するのが適当と結論された。
国産3シリンダー機の開発を前にして、1926年に8200形がアメリカのアルコ社(ALCO:American Locomotive Company)より輸入され、各種の研究が行われた。
[編集] グレズリー式弁装置
本形式に採用されたグレズリー式弁装置(Gresley conjugated valve gear)は、ロンドン・アンド・ノースイースタン鉄道(London and North Eastern Railway:LNER)の技師長(Chief Mechanic Engineer:CME)であったナイジェル・グレズリー卿(Sir Nigel Gresley)が考案した、単式3シリンダー機関車のための弁装置である。
これは通常のワルシャート式弁装置を基本として、その左右のピストン弁の尻棒の先端に連動大テコ(2 to 1 Lever:右側弁の尻棒と連動小テコの中央部に設けられた支点とを結び、中央部で台枠とピン結合される)・連動小テコ(Equal Lever:中央弁の尻棒と左側弁の尻棒を結ぶ)の2つのテコの働きにより、左右のシリンダーのバルブタイミングから差動合成で台枠中央部に設けられたシリンダーのバルブタイミングを生成する、簡潔かつ巧妙な機構である。
もっとも、特に大きな力がかかり、なおかつタイミングを正しく維持するために狂いが許されない2本の連動テコについては、支点に用いられる可動ピンを含め剛性、耐摩耗性、工作精度の全てにおいて高水準を維持することが求められたが、シンダの堆積の起きやすい煙室直下に位置することもあって各社共にその保守に難渋し、以後は戦争の影響もあって2シリンダー化などの改造を実施するか、さもなくば本形式のように早期に淘汰するか、のいずれかを各社ともに選択する結果となっている[2]。
[編集] 鉄道省唯一の日本製3シリンダー機
汽車製造会社、川崎車輛の2社により、1928年から1930年の間に97両が量産され、東海道本線・山陽本線において特急・急行列車牽引用の主力として運用された。また1934年には43号機が鷹取工場における20日の突貫工事で試験的に流線型に改造され、他機とは全く異なる外観を呈した。
しかし、構造が複雑で部品点数が多いため整備検修側からは嫌われた。設計そのものも3シリンダー機構の理解が不十分であり、連動大テコに軽め穴を不用意に設けて曲げ剛性を低下させるなど、設計陣が枝葉末節にとらわれ、その本質を見失っていた形跡が散見され、これらは運用開始後、連動テコの変形による第3シリンダーの動作不良頻発、動輪クランク位相差の不均一による起動不能などといった重大なトラブルの原因となった。
前述の改悪に加え、軌間の狭さに由来する弁装置周りの余裕の無さという致命的なマイナス要因があったため、特にメタル焼けが多発した第3シリンダー主連棒ビッグエンドへの注油には想像を絶する困難(走行中に決死の覚悟で注油を行った例すらあったという)が伴うなど、およそ成功作とは言い難かった。
このため、お召列車や運転開始当初の超特急“燕”では、信頼性の面からC51形が引き続き使用されている。それでも戦前の時点では、鉄道省は本機を整備陣の自己犠牲を多分に含んだ努力によって、かろうじで使いこなしていたが、以後鉄道省、国鉄を通じ、3シリンダー機関車の製造はおろか、設計することすらなく、また日本製という意味でも3シリンダー機は他に満鉄向けが僅かにあったのみで、日本の蒸気機関車は単純堅実だが性能向上の限界が高くない2シリンダー機関車のみに限定されることになった。
もっとも、適切に調整・保守された本形式は、ほぼ等間隔のタイミングで各シリンダが動作する3シリンダーゆえに振動が少なく、後続のC59形より乗り心地が良かったと伝えられている。
1940年代に入り、2シリンダーで同クラスの性能を持つC59形の完成に伴って幹線の主力機関車の座を譲ったが、あまりに大型であるため、当時は東海道・山陽線以外に転用不可能であった。折から戦時体制に突入したために機関車需要がさらに逼迫、にもかかわらず旅客用機関車の製造は中断されたために本形式もフルに運用され、図らずもその寿命を延ばす事になる。元々複雑極まる構造であったうえ、戦時の酷使が祟り、整備不良から戦後すぐに運用を離れる車両が続出した。結局、国産の本線用大型蒸気機関車の中ではもっとも早く1950年までにすべて廃車となった[3]。
[編集] 主要諸元
- 軸配置 2C1(パシフィック)
- 動輪直径 1750mm
- 機関車運転重量 80.98t
- ボイラー圧力 14.0kg/cm²
[編集] 保存機
1950年に廃車された45号機は教習用車両を経て鷹取工場内に放置されていたが、1961年に運行可能な状態に復元整備され、記念走行が行われている。翌1962年に鉄道90周年事業の一環として大阪市港区に開館した交通科学館(現在の交通科学博物館)に保存された。後に京都の梅小路蒸気機関車館に移され、現存唯一のC53形として静態保存されている。
なお、かつては浜松工場内にも、教習用としてボイラー部分を切開したものが存在したが、新幹線開業に伴う工場の拡張により、解体されている。
[編集] 参考文献
- 島秀雄「流線型蒸気機関車」
- 交友社『鉄道ファン』2000年7月号 No.471 p126~p131(『島秀雄遺稿集』より)
- C53 43号機とC55型の流線型化設計、改造の記録
[編集] 注記
- ^ 3シリンダー化の効果は、
- トルク変動が抑えられ、動輪の回転もスムーズになるため、低速域での出力特性が改善される。
- シリンダー数の増加により出力も増大する。
- クランクピンの位相をそれぞれ120°ずつ変えること(但し本形式では中央シリンダー位置を斜めに持ち上げていた関係で、完全には120°ずつの等間隔となっていない)による起動不能現象の防止。
- シリンダーの吸排気が1/3周期で連続的に行われることに伴う、ほぼ一定した強制通風によるボイラー燃焼効率の向上。
- ^ グレズリー式弁装置は本家LNERでさえ保守に手を焼き、最終的に開発者であるグレズリーの急死後に後任CMEのE.トンプソン(Edward Thompson)と、長くグレズリーの部下として3シリンダー機の開発に尽力したホールクロフトの決断で全て淘汰された(大半はワルシャート式弁装置を3セット備えるように改造し、それ以外は中央のシリンダーを撤去して2シリンダー化した)。
- ^ 最末期に中央西線・名古屋口でごく一部が使用されたと言われる。
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960・1000II・1070・1150・B10・B20/2700II・2900・3500・C10・C11・C12/4100・4110・E10 |
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6700・6750・6760・B50 8620・8700・8800・8850・8900・C50・C51・C52・C53・C54・C55・C56・C57・C58・C59・C60・C61・C62・C63(計画のみ) 9020・9550・9580・9600・9750・9800・9850・D50・D51・D52・D60・D61・D62 |