国鉄C56形蒸気機関車
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C56形蒸気機関車(C56がたじょうききかんしゃ)は、日本国有鉄道(国鉄)の前身である鉄道省が製造した軽量小型テンダー式蒸気機関車である。
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[編集] C56形以前
1872年(明治5年)以来続いた鉄道の建設も、主要幹線の整備の目処が立つと、政治的圧力を背景に輸送需要の大きくない閑散支線区の建設促進へと移行していった。
当時こうした線区での蒸気機関車は、幹線の需要増大に対応できずに幹線から撤退した旧型機、雑多な旧式輸入機が充てられていた。しかし、幹線と支線との需要落差が増えると、幹線用機関車は旧型機であっても大き過ぎて支線へ転用不可能となることと、輸入車両の老朽化・部品確保困難からくる整備費用増大が見込まれた。
そこで昭和初期に至って、閑散支線に最適化された、軽量小型で保守の容易な機関車が計画されることとなった。
[編集] C56形の開発
上記の通り本線より著しく低規格な簡易線には、大型機関車は入線できない。このためまず短距離線区向けには1932年にタンク式のC12形が開発された。軽量で前後進容易な小型機である。
しかし比較的長距離の線区では、C12形では航続距離が短く運用に適さない。このためC12からタンクをはずし、テンダー式に設計しなおされたのがC56形で、両形式は共通部分の多い系列設計となっている。これは制式蒸気機関車系列化の先輩であるドイツにおいて支線区向けに設計された、64形タンク機と24形テンダ機の設計手法を参考にしたと思われる。両形式は形態もC12形・C56形にそれぞれ酷似している。
当時は簡易線には、転車台が設置されている箇所が少なかった。C12形はタンク式機関車のため、バックは容易に出来るが、C56形はテンダー式機関車のため後方が見にくくならないよう、テンダー側面を大きく欠き取って後方視界を確保したスタイルが特徴的である。しかし実際には脱線が多発したため、入換を除けばバック運転はほとんど行われなかったといわれている。
[編集] 製造
鉄道省向けとしては、1935年(昭和10年)から1939年(昭和14年)までの間に160両が製造されている。製造メーカーは川崎車輛、汽車製造会社、日立製作所、日本車輌製造、三菱重工業の各社である。この他に、樺太庁鉄道向けに4両、民間向けに1両が製造されている。
製造年次ごとの番号と両数は次のとおりである。
- 1935年 - C561~24(24両)
- 1936年 - C5625~87(63両)
- 1937年 - C5688~121(34両)
- 1938年 - C56122~154(33両)
- 1939年 - C56155~160(5両)
製造所別の番号と両数は次のとおりである。
- 日立製作所(40両)
- C561,2,15,16,68~73,91~95,102~106,127~146
- 三菱重工業(47両)
- C563~5,20~22,38~48,79~88,99~101,107~111,123~126,147~154
- 川崎車輛(22両)
- C566~11,49~58,89,90,155~160
- 汽車製造(24両)
- C5612~14,23~26,59~67,112~119
- 日本車輛製造(27両)
- C5617~19,27~37,74~78,96~98,120~122
[編集] 樺太庁鉄道C52形
またC56の同形車が、南樺太がまだ日本の統治下にあった1942年(昭和17年)に、軌間1067mmで敷設された樺太庁鉄道向けに4両(C52 1~4)が日本車輛で製造されている。これらは、1943年(昭和18年)4月1日、南樺太の内地化にともない鉄道省に編入され、C56161~164となった。その後、1944年9月に内地から103号機及び152号機が樺太に転出したが、1945年の敗戦により、6両全部が樺太を占領したソビエト連邦に接収されている。
これらは、酷寒地仕様として国内のような開放的なキャブ(運転室)から密閉式のキャブへと変更されている。また、接収後の動向については資料がなく、全ては闇の中である。しかし一部の情報では1960年代まで残っていたとも言われる。
[編集] 雄別鉄道C56形
C56形はその特性から、地方私鉄での運用にも適性の高そうな機関車ではあるが、私鉄への入線は、1941年(昭和16年)に三菱重工業で製造され、雄別鉄道に納入された1001のみである。同機は、旅客列車牽引などに使用されていたが、同機は先輪脱線により使用停止され、1970年の同鉄道廃止とともに廃車解体された。
この1001号機は、戦時中アメリカ軍の銃撃にもあった被災機関車でもある。
[編集] 運用
製造当初は、日高本線・米坂線・小海線・飯山線・大糸線・越後線・七尾線・三江北線・木次線・小松島線・妻線・宮之城線・山野線などの路線に投入された。
[編集] 軍事供出
C56形は軽量小型でありながら長距離の運用に耐えられる設計であるために軍部より注目され、太平洋戦争開戦直前の1941年11月および12月に、製造された160両のうち過半数以上の90両(C561~90)が供出され、軌間を1mへ変更、その他多数の改造を受けタイ・ビルマ(現・ミャンマー)へと出征した。
タイへ送られたC56形は当時建設中だった泰緬鉄道の主力機関車として運用される事になる。しかし太平洋戦争が激化し、ビルマ戦線の戦いも始まった。C56形は、地雷や爆撃・銃撃を受け大破した車両も多数あった。そのためC56形は、昼間は運行せず夜間に細々と運行され続けたという。また、泰緬鉄道は突貫工事の上酷使に次ぐ酷使で線路が悪く、橋上で脱線転落し失われた機関車もあった。敗色濃厚となった戦争末期には、鉄橋が破壊されるなどして緊急の退却の際に機関車を連れて行けない場合も多く、敵に機関車を利用されないために、鉄道連隊の将兵の手によってカマに爆薬を詰められ、機関車を、時には苦楽を共にした将兵も自ら体をくくり付け爆破する「機関車の自決」も度々行われた。そして終戦後、泰緬鉄道は各地で寸断・線路は荒れ果て壊滅的な状況に陥っていた。同時に多くのC56形が廃車置き場に留置され、無惨な姿をさらしていた。
その後、運転が出来るC56形は泰緬鉄道が復旧した戦後も使用され、46両がタイ国鉄700形(701~746)として使われた。これらは1970年代後半から1980年代前半まで使用され、現在でも713(C5615)・715(C5617)がタイ国鉄の手によって動態保存されている。また1979年(昭和54年)には、725(C5631)と735(C5644)が日本に帰還する事になった。この2両は数多い出征機関車の中でも特別な存在である。31号機は泰緬鉄道開通式に使われた機関車で、44号機はタイで使われたC56形の中で、現地で組立てられた機関車の第1号機関車であった。両機共に、ロッドなどの細部の部品がいたるところ他の同型出征機関車から流用・修理されており、その歴戦を物語る。
現在、31号機は靖国神社の遊就館で静態保存、44号機は大井川鐵道で動態保存されている。帰国後はオリジナルの姿への復元が行われたが、屋根などにタイ時代の面影が残っている。大井川鐵道に入った44号機は入線後「かわね路号」に用いられたが、戦時中の酷使が災いし、ボイラーなどの痛みが激しく、長らく休車扱いで千頭駅にて留置されていた。しかし2006年(平成18年)9月20日、新金谷に移動し2007年(平成19年)10月14日(鉄道の日)の復帰に向け修理が行われることになった。この修理では外観がタイ国鉄仕様に改められる。
またタイでも泰緬鉄道沿線には多くのC56形が保存されている。
[編集] 国内残存のC56形
国内に残った約70両のC56形は、90両が供出された後、大規模な配置換えが行われ、北陸地方、甲信越地方、中国地方、九州地方で使用された。使用線区は、小海線・飯山線・大糸線・越後線・七尾線・三江北線・木次線・妻線・宮之城線・山野線であった。また、これらの他にも北海道や横浜などでも、入換用に使用されていた。
北海道では90両が供出される以前はC56形が多数配置され、各路線で主力機として運用されていたが、供出後の配置換えにより、北海道では数両のみ残り、その後はC11形に主役を取って代わられた。晩年は入換用として過ごし、本州のC56形より一足早く1960年代には姿を消した。C56形が使用されていた簡易線では、後継のディーゼル機関車がなかなか実用化されなかったのが幸いし、比較的晩年まで貨物列車牽引用に残っていた。しかし、簡易線区用にDD16形ディーゼル機関車が開発され貨物牽引用に投入され、C56形が置き換えられ始めた。そして1974年、三江北線の貨物列車牽引を最後にC56形は定期運用を退いた。
一方、1972年夏には、小海線でC56形が2ヶ月間復活した。小型軽快で高原地帯を走る姿が小馬(ポニー)を連想させるので「高原のポニー」と呼ばれ、当時のSLブームに花を添えた。ちなみにC56形の愛称「ポニー」はここから由来したものである。
C56形の経歴の中で特筆すべき事項の一つとして、鹿児島本線でのお召し列車牽引(91+92号機)がある。
[編集] C56形の被災
国内に残存したC56形の中で、爆撃によって完全に破壊されるなどと言った車輌は無かったが、前述の雄別鉄道1001号機がアメリカ軍の銃撃によってボイラーや主軸、動輪などが破損したほかに、急行ちどり専用機だったC56111号機も同じく空襲時の銃撃で被災している。
[編集] 主要諸元
- 全長:14,325mm
- 全高:3,900mm
- 最大幅:2,936mm
- 軸配置:2-6-0(1C)(モーガル)
- 動輪直径:1400mm
- シリンダー(直径×行程):400mm×610mm
- 弁装置:ワルシャート式
- ボイラー圧力:14.0kg/cm²
- 火格子面積:1.30m²
- 全伝熱面積:74.2m²
- 過熱伝熱面積:19.8m²
- 全蒸発伝熱面積:54.4m²
- 煙管蒸発伝熱面積:46.1m²
- 火室蒸発伝熱面積:7.4m²
- アーチ管伝熱面積:0.9m²
- ボイラー水容量:2.9m³
- 大煙管(直径×長サ×数):127mm×3200mm×16
- 小煙管(直径×長サ×数):45mm×3200mm×68
- 機関車重量(運転整備):37.63t
- 機関車重量(空車):34.27t
- 機関車動輪上重量(運転整備):31.76t
- 最大軸重(第3動軸):10.61t
- 炭水車重量(運転整備):27.90t
- 炭水車重量(空車):12.90t
- 水タンク容量:10.02m³
- 燃料積載量:5.00t
- 機関車性能:
- シリンダ引張力 8290kg
- 粘着引張力 7940kg
- 動輪周馬力 592PS
[編集] 保存
[編集] 動態保存
2006年現在、C56160がJR西日本梅小路蒸気機関車館で動態保存されている。同機はC56形のラストナンバー機として誕生。主に入換用として虎模様のペイントをされて活躍していた。1972年に梅小路入りを果たしたが、梅小路入り当初は特に目立った動きはなかった。1980年に「北海道100周年記念号」の牽引機として抜擢されて以降は、全国各地での出張運転に供されるようになった。国鉄時代並びにJR時代初期は、全国からの貸出依頼が多く、各地を走行した。JRとなって全国各地で蒸気機関車が復活した現在は、北陸本線米原~木ノ本間の「SL北びわこ号」をメインに、山口線「SLやまぐち号」でC571との重連運転など、JR西日本管内にて使用されるほか、四国や樽見鉄道などでの運転実績がある。
タイから帰還し大井川鐵道で動態保存されていたC5644は、戦時中の酷使が災いして老朽化が著しくなり、2001年に大修理が行われたが、なおもボイラー状態が芳しくなく同鉄道で最も非力(単機で牽引できるのは客車3両が限界だった)であることや、C11190の入線により機関区が手狭となったことから、2003年頃より千頭駅で休車扱いで保管された後、2006年9月より新金谷車両区にて整備が開始された。劣化が著しいボイラーは、同鐵道が部品取り用として保管していたC12208のものを流用のうえ交換、外装はタイ在籍当時の姿(一部車体は緑色でタイ語も書き込まれる)に復元といった整備内容が計画されている。3月末にボイラー交換作業を行い、現在部品を整備中。9月中に再び試運転として本線を走り、営業としての再復活は2007年10月14日を予定している。
[編集] 静態保存
引退したC56形は下記の22両が静態保存されている。
- 関東地方
- 中部地方
- 近畿地方
- 中国地方
- 九州地方
- 保存後解体
[編集] 海外保存車両
泰緬鉄道で使用されていたC56は、戦後は46両ほどがタイ国鉄で使用されていたが、大半が1970~80年頃に掛けて廃車された。このうち15号機(タイ国鉄713号機)と17号機(タイ国鉄715号機)が前述のように動態保存されているほか、静態保存されている車輌も数両ある。
トンブリー駅近郊に数台がオリジナル塗装とタイ仕様で保管されている。
また、ミャンマー側にも静態保存機が存在する。
日本国有鉄道(鉄道院・鉄道省)の制式蒸気機関車 |
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タンク機関車 |
960・1000II・1070・1150・B10・B20/2700II・2900・3500・C10・C11・C12/4100・4110・E10 |
テンダー機関車 |
6700・6750・6760・B50 8620・8700・8800・8850・8900・C50・C51・C52・C53・C54・C55・C56・C57・C58・C59・C60・C61・C62・C63(計画のみ) 9020・9550・9580・9600・9750・9800・9850・D50・D51・D52・D60・D61・D62 |