増沢末夫
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増沢 末夫(ますざわ すえお、1937年10月20日 - )はJRA(日本中央競馬会)所属の調教師、元騎手。北海道生まれ。
因みに、増沢末夫では無く増澤末夫が戸籍上の表記である[1]。
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[編集] 略歴
1957年に騎手デビュー。1992年に引退するまでの通算成績は12780戦2016勝と素晴らしい成績であった。その中身は東京優駿(日本ダービー)2勝[2]や中央競馬所属の騎手としては初となる通算2000勝を達成するなど「鉄人」の愛称で親しまれた。
特にハイセイコーとのコンビでは競馬ブームを巻き起こし『さらばハイセイコー』という曲を自ら歌いレコードを出すなど一世風靡した[3]。
逃げ戦法を得意とし、しばしば大逃げを打ち穴をあけたことから「逃げの増沢」の愛称が定着。まだ実力のない逃げ馬でも、増沢が乗ると人気になる現象もみられた。小回りコースが多く逃げが決まりやすいローカル開催での活躍も目立ち、特に福島競馬場でのレースでは「増沢の庭」と呼ばれるほどの圧倒的な強さを誇り、それまで逃げ戦法をほとんど取ったことがない馬ですら、「増沢が乗るのだからこれは逃げる」と地元ファンに目されてしまうことも少なくなかった。増沢の引退後、この流れは中舘英二に引き継がれている。
引退後は調教師に転身。1993年に厩舎を開業した。開業初年度にいきなり重賞を制覇するなど、流石と思わせるの一面も見られたが、調教師としてはまだ中央競馬のGIを勝つまでには至っていない。しかしながら、交流GIは2005年にかしわ記念をストロングブラッドで制している。所属騎手に増沢由貴子(旧姓:牧原)がおり、息子の真樹(調教助手)の夫人である。
なお2007年に定年を迎える。
[編集] 騎手時代の主な騎乗馬
- アサデンコウ(東京優駿)
- イシノヒカル(菊花賞、有馬記念)
- ハイセイコー(皐月賞、宝塚記念)
- ハワイアンイメージ(皐月賞)
- ダイナガリバー(東京優駿、有馬記念)
- ユキノサンライズ(中山記念、中山牝馬ステークス、フラワーカップ)
又、優勝こそしていないもののオグリキャップ(天皇賞(秋)、ジャパンカップ)にも騎乗している。
[編集] 調教師時代の主な管理馬
- ダイワテキサス(オールカマー、中山記念)
- ストロングブラッド(かしわ記念)
- ダイワパッション(フィリーズレビュー)
- ユキノサンロイヤル(日経賞)
- ダイワカーソン(京王杯3歳ステークス)
- レイズスズラン(さきたま杯、彩の国浦和記念)
[編集] 歌
- さらばハイセイコー(1975年1月1日、45万枚)2000年8月23日『さらばハイセイコー 完全追悼盤』も発売。
- ハイセイコーよ元気かい(1975年4月1日、14万枚)
- いななけカツラノハイセイコ(1979年、7万枚)
[編集] 著書
- 鉄人ジョッキーと呼ばれて
[編集] 脚注
- ^ 戸籍上では旧字体の澤を使用。詳細は戸籍上の表記を使用する地方競馬全国協会のデータ情報を参照の事。
- ^ 1勝目はアサデンコウで勝ったもので、以外にもこれが初重賞制覇だった。2勝目はダイナガリバーで勝ったもので、史上最年長のダービー勝利騎手、同時に史上最年長のクラシック勝利騎手となった。
- ^ 2000年にNHKの『思い出のメロディー』に出演して歌ったが、ハイセイコーの死の直後だったため、名実ともに思い出のメロディーになってしまった。ちなみに作詞は寺山修司。