武邦彦
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武邦彦(たけ くにひこ、1938年10月20日 - )は日本中央競馬会の元騎手で現在は同会の調教師である。北海道出身(本籍は京都府)。騎手武豊は三男、武幸四郎は四男である。従兄弟に武宏平調教師、元騎手の武永祥調教助手、従甥に武英智騎手がいる。
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[編集] 騎手時代
1957年叔父である京都・武平三厩舎で騎手デビュー。1967年にのちにミホノブルボンやタニノハローモアの調教師として知られる戸山為夫厩舎に移籍。1970年には河内洋、そして息子・豊の師匠となる武田作十郎厩舎に移籍。騎手としては身長が高かったが、それを克服して一流騎手となったものの、クラシックレースには縁が無かった。
しかし、1972年にアチーブスターで第32回桜花賞を勝って初のクラシック制覇[1]してからは、馬インフルエンザの影響で7月9日に行なわれた、第39回日本ダービーにロングエースに騎乗し優勝。以後は八大競走優勝の常連となった。
1974年の第34回皐月賞ではキタノカチドキに騎乗し優勝。この時、同馬には初めての『シード馬』となった。キタノカチドキは同年の第35回菊花賞も制する。1976年には名馬トウショウボーイに騎乗。初騎乗となった第21回有馬記念ではテンポイントを破り、年度代表馬のタイトルを獲得。翌1977年の第18回宝塚記念も制した。1980年には1000勝を達成。これは関西所属の騎手としては初めての快挙であった。1985年2月24日に引退。JRA通算勝利数は1163であった。
競馬実況の第一人者である杉本清アナウンサーは武邦彦を『名人』と称して実況した。ライバルは福永洋一[2]。ファンからは『タケクニ』・『ターフの魔術師』のあだ名で呼ばれていた。特に騎手の腕が勝負を左右する菊花賞で3勝を挙げた実績がある[3]。
ファンの事を『フアン』と発言し、しばしば『不安』と混同されたりした。
[編集] その他の騎乗馬
- タケホープ (1973年の第34回菊花賞に騎乗し優勝。この時は主戦の嶋田功騎手が落馬負傷した為、ピンチヒッターで騎乗)
- タカエノカオリ (1974年の第34回桜花賞で優勝)
- テンポイント (主戦の鹿戸明騎手が落馬負傷した為、1976年の第43回ダービーで騎乗(レースは故障の為に7着敗退)。後にライバル・トウショウボーイの主戦になった事もあり、同馬への騎乗はこの時限り)
- インターグシケン (1978年の第38回菊花賞で優勝)
- リードスワロー (1978年の第3回エリザベス女王杯で優勝)
- ニホンピロウイナー (河内洋のイメージが強い同馬だが、1983年のきさらぎ賞を制した時は武邦彦騎乗)
[編集] 調教師時代
1987年3月22日中京競馬第5競走でテンバハンカンで初出走(8着)。同年6月21日中京競馬第4競走に出走したサンライズサンで初勝利を挙げる。
1989年にバンブーメモリーで安田記念に優勝(騎手は岡部幸雄)。重賞初制覇がGI競走となった。因みに、バンブーメモリーは三男武豊とのコンビ[4]で1990年にスプリンターズステークス・高松宮杯[5]を制している。
また、1997年に管理するオースミタイクーンでマイラーズカップを制覇。この時は四男の武幸四郎が騎乗し、幸四郎の初勝利が重賞レースという快挙を成し遂げた。更に、2005年にエイシンテンダーでチューリップ賞を制覇。これが騎乗した幸四郎の通算400勝達成となった。
因みに、オリビエ・ペリエが1995年に初来日した際の身元引受人でもあった。
また、1997年の第58回の菊花賞ではトライアルの神戸新聞杯・京都新聞杯の両競走を制したマチカネフクキタルを指し「俺が乗ったら勝つ」と言い、かつての名人と称された騎手としての相馬眼を見事に的中させている。
なお2008年に定年を迎える
[編集] その他の管理馬
- ショウリノメガミ オリビエ・ペリエとのコンビで1996年の京都牝馬特別(現在の京都牝馬ステークス)を制覇
- オースミシャダイ 阪神大賞典、日経賞を制した小柄なステイヤー(1990年)
- オースミタイクーン 息子である武幸四郎が騎乗してJRA初勝利と史上最年少重賞初勝利を決めた馬。
- メジロベイリー 横山典弘騎乗で2000年の朝日杯3歳ステークスを制覇
[編集] 厩舎スタッフ
- 徳家良雄厩務員(2006年度優秀厩務員賞受賞)
[編集] テレビCM出演
- サッポロビール 三男・武豊と共に出演(1989年)。因みに、かなりの酒豪として知られ、『移動中の新幹線の窓にミニウイスキーのボトルが並んだ』・『落馬で前歯が折れたにも関わらずストローでビールを飲んでいた[6]』・『ロングエースでダービーを制した後、深夜まで飲んだにも関わらず次の日の早朝にはロングエースの厩に行った』などの伝説がある。