多々良浜の戦い
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多々良浜の戦い(たたらはまのたたかい)は、南北朝時代の1336年(建武3年)に行われた合戦である。
[編集] 経緯
後醍醐天皇の建武の新政から離反した足利尊氏は、建武政権から尊氏追討を命じられた新田義貞を箱根・竹ノ下の戦いで破り、さらに新田軍を追撃して京都の確保を図るが、1336年、楠木正成や北畠顕家らと連絡した宮方勢に京都とその近辺で敗れ海路西走し、途中播磨国の赤松則村(円心)らに助けられ、再興を賭けて九州に下る。
尊氏は、足利方に味方した肥前国守護の少弐頼尚らに迎えられる。一方、宮方に味方した肥後国の菊池武敏をはじめ、筑前国の秋月種道、肥後国の阿蘇惟直、筑後国の蒲池武久、星野家能などの宮方(南朝方)の軍勢は博多を攻め、少弐氏の本拠大宰府を襲撃して陥落させ、少弐貞経を自害させる。足利勢は、筑前国宗像(現在の福岡県宗像市周辺)を本拠とする宗像氏範らの支援を受けて宗像大社に戦勝を祈願し、筑前国の多々良浜(福岡市東区)に布陣した菊池氏率いる宮方と戦う。兵力は菊池軍の方が圧倒的に多く、少弐貞経が足利軍のために調達した装備は菊池軍の大宰府攻撃の際に焼失していたため、当初は宮方の菊池軍が優勢であったが、菊池軍に裏切りが出たため戦況は逆転し、足利軍は菊池軍を敗走させる。この戦いの結果により九州のほぼ全域が足利方につくこととなり、尊氏は体勢を整え、一色範氏や仁木義長などを九州の抑えとして残し、再び上洛し、摂津国湊川の戦いで楠木正成を破る。
しかし、この戦いの後に中央で足利尊氏が幕府を開いた後も菊池氏は南朝方として戦い、さらに南朝の後醍醐天皇の皇子である懐良親王が伊予国の宇都宮貞泰と共に九州に上陸し、幕府勢力と戦い、九州は一時期、懐良親王率いる征西軍府の南朝方が圧倒的優位の地となる。観応の擾乱で幕府に反抗した尊氏の庶子足利直冬が九州に来ると、九州は、南朝、尊氏(幕府)、直冬の3勢力が鼎立することとなる。
[編集] 多々良浜の戦い(戦国時代)
戦国時代の多々良浜の戦い(たたらはまのたたかい)は、1569年(永禄12年)に大友氏と毛利氏が豊前、 筑前二国の争奪をめぐって争った戦いである。 毛利氏はこの戦いで大友氏の居城のひとつ、立花城を落とすことに成功し、 その後は両軍のにらみ合いのまま、膠着状態が続いた。 ところが、京都に逃れていた尼子氏の残党、山中幸盛が尼子勝久と共に出雲に攻め込んできたため、大友氏と尼子氏が手を結ぶのを恐れた毛利氏が立花城を捨て急いで軍を引き返した。
[編集] 関連項目
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