大岡忠勝
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時代 | 戦国時代 ‐ 安土桃山時代 | |||
生誕 | 大永2年(1522年) | |||
死没 | 文禄3年6月12日(1594年7月29日) | |||
別名 | 助勝、忠右衛門 | |||
戒名 | 大綱院殿忠誉窓月淨見居士 | |||
墓所 | 窓月山浄見寺 | |||
主君 | 松平清康→松平広忠 | |||
氏族 | 大岡氏(藤原北家教実流) | |||
父母 | 大岡善吉 | |||
兄弟 | 大岡忠勝、大岡忠直 | |||
子 | 忠祐、忠次、忠政 |
大岡 忠勝(おおおか ただかつ、大永2年(1522年) - 文禄3年6月12日(1594年7月29日))は戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。
目次 |
[編集] 生涯
三河国八名郡大岡村の地頭。清康、広忠の二代に渡り、忠勝は松平氏に仕え、三男・忠政は徳川氏に仕えた。
長男の忠祐、次男の忠次等が夭逝した為、三男・忠政に家督を継がせ、文禄3年(1594年)に後を追う様に忠勝も死去。
慶長16年(1611年)、本領の三河国から相模国高座郡芹沢村の浄見寺に改葬された。戒名は「大綱院殿忠誉窓月淨見居士」。子孫は代々、主君・松平広忠の「忠」の一字を名乗る事を許された。
[編集] 年表
- 大永2年(1522年):出生
- 天文19年(1550年):三男・忠政生
- 元亀3年(1573年):三方ヶ原の戦い
- 天正3年5月(1575年):長篠の戦い
- 天正19年(1591年):相模国高座郡堤村に380石の領地を与えられる
- 文禄3年(1594年):死去
[編集] 系譜
子女
- 長男・大岡忠祐
- 次男・大岡忠次
- 三男・大岡忠政(1550年 ‐ 1629年)