大岡忠政
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時代 | 戦国時代 - 江戸時代 | |||
生誕 | 天文19年(1550年) | |||
死没 | 寛永6年2月28日(1629年3月22日) | |||
別名 | 忠四郎→忠右衛門 | |||
墓所 | 窓月山浄見寺 | |||
主君 | 松平広忠→徳川家康 | |||
氏族 | 大岡氏(藤原北家教実流) | |||
父母 | 父:大岡忠勝 | |||
兄弟 | 大岡忠祐、大岡忠次、大岡忠政 | |||
子 | 忠俊、忠行、忠世、忠吉 |
大岡 忠政(おおおか ただまさ、天文19年(1550年) - 寛永6年2月28日(1629年3月22日))は戦国時代から江戸時代にかけての武将、江戸幕府旗本。
目次 |
[編集] 生涯
天文19年(1550年) 、三河国の武将・大岡忠勝の三男として三河国八名郡大岡村に生まれる。長兄・忠祐、次兄・忠次等が先に亡くなった為、忠政が大岡家の家督を継ぐ。文禄3年(1594年)に父・忠勝も亡くなる。
父・忠勝の代に松平氏へ仕え、忠政は徳川家康に仕えた。忠政は剛直をもって知られ、元亀3年(1573年)、三方ヶ原の戦いで功績を立てる。天正3年(1575年)5月に長篠の戦いへ参戦した。家康の天正18年(1590年)8月の関東転封に従い、翌年の天正19年(1591年)5月、忠政は相模国(東海道)高座郡堤村に380石の領地を与えられ、本領の三河国から移り、陣屋を構えた。
慶長2年(1597年)同郡、大曲村に220石を加増される。更に慶長8年(1603年)同郡、高田村に160余石を加増される。 慶長16年(1611年)、亡父・忠勝を弔う為、忠政は芹沢村の来迎寺住職、深誉円察に開山させ、浄見寺を創建し、忠勝を葬る。
[編集] 年表
- 天文19年(1550年):出生
- 元亀3年(1573年):三方ヶ原の戦い
- 天正3年5月(1575年):長篠の戦い
- 天正4年(1576年): 次男・忠行、三男・忠世等生
- 天正15年(1587年):四男・忠吉生
- 天正19年(1591年):相模国高座郡堤村に380石の領地を与えられる。
- 文禄3年(1594年):父・忠勝死去。
- 慶長2年(1597年):相模国高座郡大曲村220石加増。
- 慶長8年(1603年):同郡、高田村に160余石を加増。
- 慶長19年(1614年):大坂夏の陣
- 慶長16年(1611年):浄見寺創建。
- 寛永6年(1629年):死去。
[編集] 系譜
兄弟
- 大岡忠祐
- 大岡忠次
- 大岡忠政
子女
[編集] 関連項目
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