大河内氏
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大河内氏(おおこうちし)は、清和源氏、摂津源氏の一族で、源頼政の孫、顕綱(あきつな)が三河国額田郡大河内郷(愛知県岡崎市大平町字大河内・注、異説あり。洞町等)に移り住み、大河内氏を称したことを始まりとする。顕綱の父は源兼綱。正綱の代に、徳川氏一族の河内源氏で新田氏流とされる長沢松平家の養子となり、それ以後は大河内松平家と言う。江戸時代は大名や旗本であり、知恵伊豆と称される老中松平信綱などを輩出した。明治に入り、大河内姓に復する。
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[編集] 長沢松平家に養子になる前
以仁王の乱(治承4年(1180年))で、祖父源頼政と父源兼綱を討たれた源顕綱は母と共に三河国額田郡大河内郷に落ちた。後に足利義氏(文治5年(1189年)~建長6年(1255年))が承久の乱(承久3年(1221年))の戦功により鎌倉幕府の命で守護職として三河国に入った。顕綱は年下の足利義氏の傘下に家臣として入った。この源顕綱が初代大河内顕綱である。その子、大河内政綱(政顕)は足利泰氏の臣下となったとされる。その後、大河内家は足利一門の血統の吉良氏の家老となる。幡豆郡の寺津城(大河内氏の正紋から臥蝶城とも呼ばれる。西尾市寺津町)を拠点とする。吉良氏の所領である遠江国引馬荘(静岡県浜松市)の代官となった一流があり、備中守貞綱は斯波氏と結び今川氏に執拗に抵抗した。 12代金兵衛秀綱(天文15年(1546年) - 元和4年(1618年)9月13日)の代になって徳川家康に属し、秀綱は慶長年間に鹿沼で代官をつとめた。
近世以前に分かれた一族の別系に、代々「大河内善兵衛」を称した旗本があった。
[編集] 長沢松平家に養子になって以後
天正15年(1587年)、徳川家康により、大河内秀綱の二男正綱が長沢松平家の松平正次の養子となり、旗本として出世の後、元和3年(1617年)に相模国玉縄藩2万2000石の大名となった。このため大河内一族は松平氏を称することが許され大河内松平家と呼ばれる。江戸時代は、宗家は旗本だったものの、大名の分家が幕末に三家有った。松平伊豆守という名は、大河内氏の一分家の大名が代々名乗った。智慧伊豆と謳われた松平伊豆守信綱は大河内氏である。明治以後は大河内氏に戻した。大名の三家は、爵位を下され、子爵家となった。
末裔には理化学研究所の所長も務めた物理学者の大河内正敏がいる。
[編集] 紋所
家紋は、正紋が臥蝶に十六菊(ふせちょうにじゅうろくきく)(通称、伊豆蝶)、替紋が三ツ扇(みつおうぎ)である。