天叢雲剣
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)とは、三種の神器の一つで、熱田神宮の神体である。草薙剣(くさなぎのつるぎ・くさなぎのけん)・都牟刈の大刀(つむがりのたち)とも称される。三種の神器の中では天皇の持つ武力の象徴であるとされる。
目次 |
[編集] 神話での記述
スサノオ(須佐之男命)が出雲国で倒したヤマタノオロチ(八岐大蛇、八俣遠呂智)の尾から出てきた太刀で、天叢雲という名前は、ヤマタノオロチの頭上に常に叢雲が掛かっていたためとしている。剣はスサノオからアマテラス(天照大神)に奉納され、天孫降臨の際にニニギ(瓊瓊杵尊)に手渡された。
以降、皇居内にアマテラスの御神体として八咫鏡(やたのかがみ)とともに祀られていたが、崇神天皇(紀元前148年-紀元前30年)の時代に皇女トヨスキイリビメ(豊鋤入姫命)により八咫鏡とともに皇居の外に祀るようになり、途中で垂仁天皇(紀元前69年-70年)の皇女ヤマトヒメ(倭姫命)に引き継がれ、あわせて約60年をかけて現在の伊勢神宮内宮に落ち着いた。(詳細記事:元伊勢)
その後、ヤマトヒメから、蛮族の討伐に東へ向かうヤマトタケル(日本武尊)に渡された。討伐の後、尾張で結婚したミヤズヒメ(宮簀媛)の元に剣を預けたまま伊吹山の悪神を討伐しに行くが、山の神によって病を得、途中で亡くなってしまった。ミヤズヒメは剣を祀るために熱田神宮を建てた。
なお、『古語拾遺』の岩戸隠れの段において、アメノマヒトツノカミ(天目一箇神)が金属製の武具を作ったとの記述があり、また、『古事記』の同段で登場するアマツマラ(天津麻羅)が何をしたのかが書かれていないことから、このときに天叢雲剣も作られていたとする説もある。そうであれば、このときに三種の神器が全て作られたことになる。
[編集] 地方・その他に於ける記述
[編集] 出雲国の記述
ヤマタノオロチを倒した場所は出雲国で、現在でも特殊鋼の生産で有名な島根県安来市の山奥、奥出雲町。この地でスサノオが天叢雲剣を獲得したことは、古代製鉄とヤマタノオロチ神話の深い関係を伺わせる。また、簸川上(ひのかわかみ)鳥髪峰(現・鳥上山=奥出雲町船通山)にスサノオが高天原より降り立ちヤマタノオロチを退治したことから、この神事を祝い船通山宣揚祭が毎年開かれる。スサノオが獲得した時は都牟刈の太刀(つむがりのたち。偉大な力を持つ太刀)と呼んでいた。また、『出雲国風土記』では、意宇郡母里郷で「越の八口」を退治したとの記述がある。
[編集] 剣の名前の由来
諸説有り、実際は余り判っていない。
[編集] 天叢雲剣
[編集] 八俣遠呂智由来説
一部の『日本書紀』にある説より。ヤマタノオロチ(八俣遠呂智)の頭上にはいつも雲がかかっていたので「天叢雲剣」と名付けられた。ヤマトタケル(日本武尊)が伊勢神宮でこれを拝受し、蝦夷討伐へ向う途上、駿河でこの神剣によって野火の難を払った。そのため草薙剣という名前を再命名した。
有名な説だが、神剣を気軽にヤマトタケルに預けてしまう点、神剣で草を薙ぐなどあり得るかという疑問などから、「天叢雲剣」「草薙剣」の二剣が歴史的には別の剣ではないかという議論が起こった元にもなっている。
[編集] 草薙の剣
[編集] 「草を薙いだ剣」
上記の遠征時に、ヤマトタケルが野火攻めから脱出する為に、この太刀で草を薙いだ事から。この説の方が、一般には知られている。
[編集] 「蛇の剣」
クサは臭、ナギは蛇の意で、原義は「蛇の剣」であるという説。神話の記述でも、この剣は蛇の姿をしたヤマタノオロチ(八岐大蛇、八俣遠呂智)の尾から出て来ており、本来の伝承では蛇の剣であったとも考えられる。
[編集] 現在の所在諸説
神話上重要な剣であるため、この剣は模造、偽造、盗難、消失、水没と様々な遍歴を辿った。結果、現在の所在については諸説語られている。
[編集] 熱田神宮説
熱田神宮の奥深くに神体として安置されているという説。神話の記述の通りであればこうなる。
これに拠れば668年に新羅の僧・道行が熱田神宮の神剣を盗み、新羅に持ち帰ろうとした。しかし船が難破して失敗し、その後は宮中で保管されていた(草薙剣盗難事件も参照)。688年に天武天皇が病に倒れると、これが神剣の祟りだということで熱田神宮に戻された。
江戸時代の神官が神剣を盗み見たとの記録がある。それによれば長さは2尺8寸(およそ85センチ)ほどで、刃先は菖蒲の葉に似ており、全体的に白っぽく、錆はなかったとある。神剣を見た神官は祟りで亡くなったとの逸話も伝わっている。現代になってNHKが熱田神宮に取材に行っているが、問題の神剣は見せてもらえなかった。(『古代史の謎に挑むI』より)
また、熱田神宮に祀られている神剣と皇室(大和王権)とは元々関係ないが、これを皇室を結びつけるために神話の記述が作られたという説や、逆に大和王権が尾張氏を取り込むために剣を贈り、これが神剣となったとする説などがある。
[編集] 壇ノ浦水没説
平家滅亡の折に、二位の尼が腰に差して入水し、そのまま上がっていないとする説。
『吾妻鏡』の壇ノ浦の戦いの元暦二年三月二十四日の条で「二位ノ尼は宝剣(天叢雲剣)を持って、按察の局は先帝(安徳天皇)を抱き奉って、共に海底に没する。」とある。また戦いの後の元暦二年四月十一日の条に戦いでの平氏方の戦死者、捕虜の報告に続いて「内侍所(八咫鏡)と神璽(八尺瓊勾玉)は御座すが。宝剣(天叢雲剣)は紛失。」と記されており、古くから唱えられた説のひとつである。
この時に所持していた物は宮中で元々使用されていた模造品という説がある。元々三種の神器はご神体でもあるので置く地は神託により定められている。つまり常時宮中には置けない。また移動する際には特別な行事が必要であるが行われた記録はない。
この説の元となっているのは伊勢神宮を司る忌部氏(いんべし)が持統天皇に鏡と太刀を渡した事に由来する。この時の太刀が天叢雲剣と八咫鏡ではと言うところから出ている説であるが、伊勢神宮では天皇の即位の際に必ず須賀利御太刀(すがりのおんたち)と御鏡を天皇家に奉納する。つまり、この太刀と御鏡を所持する者が正統な天皇という証でもあるが、これらの太刀と鏡が混同されているのではとも言われている。また、この説は、権力が武士に移ったことを、武力の象徴である剣に喩えて作られた話ではないかとする説もある。
[編集] 宮中安置説
宮中儀式に使われているものが本物だという説である。
役割的に見た場合、「ここで使われる剣を皇位継承の象徴とする」という意味では正しいが、この儀式に使われているのは伊勢神宮から献上される須賀利御太刀であるので、歴史的には誤りである。
[編集] フィクションにおける天叢雲剣(草薙の剣)
天叢雲剣(草薙の剣)は三種の神器のひとつであり、固有名詞を持つ日本製の刀剣の中でも抜群の知名度を持つ事や、「スサノオ(主人公)がヤマタノオロチ(最後の敵)を倒して手に入れた」というヒロイック・サーガと相俟ってアニメ・ゲーム・漫画といった媒体、特に日本の作品では頻繁に登場している。ただし、このような場合には「天叢雲剣」よりも「草薙の剣」という名称の方が一般的である。
こういった娯楽作品での「草薙の剣」は『最強の武器』とされていることが多く、聖剣エクスカリバーと並んで最強の武器の代名詞となっている。
[編集] 関連項目
[編集] 参考文献
- NHK編『古代史の謎に挑むI』1988 日本放送出版協会(NHK歴史への招待 第2巻)
- 大林太良・吉田敦彦[著]『剣の神・剣の英雄』1981 法政大学出版局