太上天皇
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太上天皇(たいじょうてんのう、だじょうてんのう)とは皇位を後継者に譲った天皇。またはその人の称号。上皇(じょうこう)と略することが多い。由来は中国の皇帝が位を退くと太上皇と尊称されたことにあるといわれる。なお出家した上皇を太上法皇、法皇(ほうおう)と称する。また、「院」と称されることも多い。三宮と総称して院宮といい、さらに有力貴族・寺社を含めた総称を院宮王臣家といった。院の御所が仙洞(せんとう)御所と呼ばれたことから「仙洞」も上皇の謂として用いられる。
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[編集] 日本の例
大宝律令において、天皇と並んで規定があり、天皇と同じように院宣を以て、その意向を政治的に汲み入れることが可能であった。院庁を開設し、院蔵人などの機関を設けることもできた。
平安時代の末になると、天皇との母子関係を基礎とした外戚による摂関政治から、父子関係に基礎を置いた上皇による院政が行われるようになった。史上有名な上皇の多くは、この時期に属する。これら政権を握った上皇を、また治天の君(ちてんのきみ)と称する。
天皇として即位はしなかったものの、存命中に子が天皇として即位したために太上天皇に准じて「准太上天皇」となる例もあった。鎌倉時代の後堀河天皇の父君「後高倉院」、室町時代の後花園天皇の父君「後崇光院」など。前者は、承久の乱後の朝廷最高権力者の不在から、院政を行っている。また足利義満の死に際し、朝廷が太上天皇の尊号を贈ろうとしたという事例もある(最終的には子の義持が辞退)。江戸時代後期には光格天皇が皇位には付いていない父に対して太上天皇の尊号を贈ろうとして、前例の無い事態であると幕府老中松平定信などに反対される尊号一件(尊号事件)と呼ばれる紛議も発生する。
日本では持統天皇が文武天皇に譲位をしたのが最初であり(皇極天皇が弟孝徳天皇に譲位した例はあるが、このときには「太上天皇」号は存在しておらず、またその後斉明天皇として重祚している)、江戸時代後期光格天皇が仁孝天皇に譲位するまで計62人の上皇が存在した。
ただし、その中には天皇在位のままで死去するのは不吉であるとして崩御直前に譲位の手続きが行われて太上天皇の称号が贈られてそのまま崩御した例も見られる(醍醐上皇の8日間、一条上皇の10日間、後朱雀上皇の3日間などはその典型と言える)。
なお、現在の皇室典範では譲位を認めていないため、制度的に太上天皇は存在しない。
尊号を送られた者 | 尊号 | 追贈の理由 |
---|---|---|
敦明親王 | 小一条院太上天皇 | 廃太子による、藤原氏の配慮 |
守貞親王 | 後高倉院太上天皇・持明院法皇 | 後堀河天皇の御父 |
足利義満 | 鹿苑院太上天皇・鹿苑院太上法皇 | 朝廷の実権掌握、公家の配慮(子・足利義持が辞退) |
伏見宮貞成親王 | 後崇光院太上天皇 | 後花園天皇の御父 |
誠仁親王 | 陽光院太上天皇 | 後陽成天皇の御父 |
閑院宮典仁親王 | 慶光院太上天皇 | 光格天皇の御父(尊号事件) |
[編集] 海外の例
[編集] 中国
中国の皇帝では太上皇として上皇が存在しており、例としては西晋の孝恵帝、唐の高祖、睿宗、玄宗、南宋の高宗、明の英宗、清の乾隆帝等がいる。また、日本の後高倉法皇のように帝位には即かなかったものの、没後若しくは存命中に子が皇帝となり王朝を開いたが故に、太上皇の称号を贈られた例として、秦の始皇帝の父・荘襄王、漢の高祖の父・劉太公がいる。
[編集] ベトナム
ベトナムの歴代王朝は代々中国皇帝に朝貢をしていたが、一方で国王がその諱(本名)を他国に知られてその臣下扱いされることを潔しとしない風潮もあった。そこで国王が早い段階で後継者に王位を譲って上皇となり王室内の最高意思決定と対外(中国)交渉を行い、国王は内政一般を扱うという慣習が成立した。このため、中国への朝貢は上皇が「国王」を名乗って行っており、中国正史とベトナムの正史が伝える国王の在位には一代ずつのずれが生じているといわれている。