太平洋戦争 (南米)
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太平洋戦争(たいへいようせんそう、Guerra del Pacífico)は、1879年から1884年にかけて、南米のボリビア・ペルー同盟とチリの間で行われた戦争である。
南米大陸太平洋岸の資源地帯を巡る戦争であった。係争3カ国の主要鉱石が硝石であったことから硝石戦争とも呼ばれる。「太平洋戦争」とは、スペイン語の「Guerra del Pacifico」の訳にあたり、主に海戦が主体であったことによる。
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[編集] 背景
16世紀にスペイン、ポルトガルなどの植民地となっていた南米諸国は、フランス革命などの影響で19世紀には独立運動が起こり、1818年にはチリが、1825年にはペルーが独立、ペルーの一部は、指導者のシモン・ボリバル(Simón Bolívar)にちなんでボリビア(Bolivia)として独立した。これらの国々では独立後も主導権争いが起こるが、チリでは1833年に憲法を制定し、経済政策として硝石を始めとする鉱山開発を開始する。
アタカマ砂漠において硝石や鉄鉱石の鉱脈が発見されると、イギリス資本の提供を受けたチリ企業が国境へと進出し、アントファガスタ、タラパカ州において開発を開始。一方、財政難であったボリビアや、グアノ(鳥糞石)の枯渇と価格暴落に直面していたペルーは硝石採掘に注目。1875年にはペルーがタラパカのチリ系企業を有償接収する。ボリビアはチリ系企業に輸出税を課税し、拒否した企業に対しては接収を強行した。
1879年2月、チリがアントファガスタを軍事的に占領し、太平洋地域を制圧すると、3月にボリビアはチリに対して宣戦布告。ペルーは中立を宣言して仲裁役を装うが、ボリビアとの秘密条約(1873年)が発覚し、チリは4月にペルーに対して宣戦布告した。
[編集] 経過
陸軍兵力ではボリビア・ペルー側に有利であったが、海岸線の長いチリではイギリスの指導で海軍整備をしているのに対し、ボリビアの海軍は未整備で、ペルー海軍のみでチリ海軍と戦うこととなった。
チリは2隻の艦隊をバルパライソからペルー沖へ派遣し、タラパカ州イキケを海上封鎖する。5月にはペルー海軍の集結していたカヤオの奇襲を試みるが、カヤオのペルー艦隊(ミゲル・グラウ提督 Miguel Grau)はアリカ州へ向かう兵員輸送の護衛任務で出向しており、戦闘は回避される。2隻のペルー艦隊は輸送任務を終えるとイキケの封鎖を破るために南下し、5月21日には湾口でイキケの海戦(Combate Naval de Iquique)が行われる。海戦はペルー側の衝角攻撃でチリ艦1隻を撃破するが、ペルー側も主力艦を座礁して失う結果となる。
制海権はチリ側に有利となり、ペルー海軍の行動はグラウ提督座上の「ワスカル」による輸送船への砲撃や港湾施設襲撃などのゲリラ戦に終始する。10月8日、アントワァガスタ沖で行われたアンガモス海戦でグラウ提督らが戦死し、「ワスカル」は拿捕、制海権は完全にチリ側に握られる。
1880年10月にはチリ軍はピスコへ上陸し、ペルー首都リマへ進攻。翌1881年1月には攻撃が開始され、同月にはチリ軍は市内へと進撃する。ペルー政府はアンデス山脈に逃げ込み抵抗を続けるが、新大統領となったミゲル・イグレシアス(Miguel Iglesias)は降伏した。
[編集] 影響
1883年10月20日にアンコンで講和条約(アンコン条約)が結ばれた。翌1884年4月4日、ボリビアもチリと休戦し、バルパライソで講和条約(バルパライソ条約)が締結される。チリはペルーからタラパカ州を、ボリビアはアントファガスタ地域など海岸沿いの領土を割譲させ、さらにペルー領であったタクナ州、アリカ州を獲得した(タクナは1929年にペルーへ返還)。
戦争の結果、鉱物資源の輸出でチリは経済成長し、ブラジルやアルゼンチンと肩を並べる。沿岸部の領土を失ったボリビアは内陸国となったが、主力は海兵隊であるものの、現在でも組織として独立した海軍(Fuerza Naval Boliviana: Bolivian Naval Force)を保有しており、主にティティカカ湖やアマゾン川に展開している。