夷陵の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
夷陵の戦い(いりょうのたたかい、中国語 夷陵之戰 Yílíng zhī zhàn)は中国三国時代の222年に夷陵(荊州西北部、現在の湖北省宜昌県)で蜀漢皇帝劉備の親征軍を呉王孫権の武将陸遜率いる呉軍が打ち破った戦い。
[編集] 事前の経緯
208年の赤壁の戦いに於いて主要な活躍をした孫権の呉勢力であったが、その後の劉備が荊州を占拠、再三の引渡し要求に対しても北半分のみの譲渡に留まり、このことに強い不満を抱いていた。さりとて、大国魏に対して呉蜀の同盟を破棄するわけにもいかなかった。一方の劉備勢力はこの荊州を足がかりにして西の益州(四川)を獲得し、北の曹操勢力に対抗する体勢を整えつつあった。呉の国内でも親劉備派と反劉備派に分かれて意見が対立していた。赤壁以後の政権を執っていた魯粛は親劉備派だったが、魯粛の死後は反劉備派の勢力が強くなり、荊州を守備する関羽と対峙するように呂蒙が派遣されることになった。
219年、この年は西で劉備が漢中攻略作戦を進めていたので、それを援護するために荊州の守将であった関羽は魏の荊州の拠点である樊城に対しての攻撃を行っていた。このことを好機と見た呂蒙は荊州侵攻作戦を開始し、関羽を捕らえて殺し、荊州を領有することに成功した。呂蒙はこの地を守護する任を受け、善政した。この後、呂蒙・曹操ら関羽の死に関わった人物が次々と死んだために「関羽の呪い」と噂されるようになり、後に関羽が関帝として崇められる一因となった。この民間伝承は『三国志演義』にも採用されている。
[編集] 夷陵の戦い
旗揚げ当時からの部下であり、兄弟同然だった関羽の訃報を聞いた劉備は嘆き悲しみそして怒り狂い、呉への復讐を誓った。正史では、先主伝、法正伝などにそのことが記され、魏の謀臣劉曄も、劉備と関羽の関係の深さから、劉備の呉への出兵を予測している。しかし、一国の君主の行動としては軽率すぎ、群臣の反対が挙がることとなった。当事者の思いとは別に、客観的に見れば、荊州戦役で失って大きかったのは関羽ではなくむしろ荊州そのものであり、蜀という国にとって荊州は魏国攻略の足がかりの地である。また蜀駐屯の有力家臣や兵士達の故郷でもある。したがって夷陵の戦いは国家存亡をかけた失地回復戦であったという見方もあり、むしろ国家情勢を蜀という立場に従って見直すならこの見方のほうが理にかなっている(後述するとおり、この戦後には蜀は完全に三国を統一できるだけの力を失ってしまっている)。このためか、天下三分の計の立案者である諸葛亮が、この出兵に反対したという記述は、正史に見出せない。 なお220年に魏の曹丕が後漢より禅譲を行い、皇帝となったために翌221年に劉備も皇帝となっている。また同年張飛が部下の反乱により没する。
劉備は呉に対する侵攻作戦を宣言し、趙雲等の複数の人間による反対意見も聞きいれず、作戦を発動した。一方の呉では関羽を殺した時から劉備と対立することになることは明白であり、その対抗策として魏へ接近し、形式的に称臣することで劉備に対抗しようとした。
222年、劉備は五万の親征軍を発した。当初は劉備率いる蜀軍の連戦連勝であり、呉の領内へ深く攻め入ることとなった。しかし、呉軍の後退は呉軍総大将・陸遜の作戦であり、蜀軍を引き付けて相手が攻め疲れ、慢心した時に撃つという巧妙なものであった。半年の撤退の後に反撃に出た呉軍は火攻めをもって蜀軍を大混乱に落としいれた。この時、白眉の語源となった秀才・馬良が討死。王甫や張南らも戦死し、退路を失った黄権も魏の皇帝曹丕に投降、軍船など兵器類は多数奪われた。劉備は救援の趙雲・馬忠らに助けられ辛うじて白帝城に逃げ込み、白帝城を永安と改名、ここに留まる。蜀軍の被害は著しく、生き残ったのはわずかだったという。これにより蜀は荊州の拠点を全て失い、自力で三国を統一する力を完全に失った。
[編集] 戦後
この戦いで意気消沈した劉備は白帝城で病死し、その後を劉禅が継ぎ、国事は諸葛亮に全てゆだねられる事になった。呉ではこの大勝を機に再び魏の影響下から脱して独立色を明確にし、蜀と結んで魏に対抗するようになる。
『三国志演義』では、劉備が漢中を領有した翌年に死んでいるはずの老将黄忠が劉備に「年寄りは役に立たぬ(この時劉備も六十代)」と馬鹿にされ、敵に突っ込んでいき矢をうけ、その傷が元で陣没することになっている。また馬良は諸葛亮に蜀軍の布陣を聞きに行き、南蛮征伐の途中まで生きる事になっている。また、関羽の仇である麋芳、士仁、潘璋、朱然、馬忠らが張苞、関興らの手により次々と戦死するが、これは全くの創作である。
他にも、劉備を追ってきた陸遜が、諸葛亮発案の石兵八陣にかかり進軍出来ずに途中で引き返し、魏の攻撃に対処することになっている。