宇和島城
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
|
|
![]() |
|
天守 | |
通称 |
鶴島城、丸串城 |
城郭構造 |
梯郭式平山城 |
天守構造 |
単立式層塔型 |
築城主 |
橘遠保 |
築城年 | |
主な改修者 | |
主な城主 | |
廃城年 | |
遺構 |
現存天守・門、石垣 |
位置 |
宇和島城(うわじまじょう)は日本の城。所在地は愛媛県宇和島市丸の内。国指定史跡。
目次 |
[編集] 概要
縄張りは梯郭式平山城である。藤堂高虎により現在の五角形の縄張りの城が形づくられた。東側に堀、西側半分が海により防衛されていたが、現在は堀も海も埋め立てられている。天守(国の重要文化財)と上り立ち門(市指定文化財)、石垣が現存する。江戸時代は宇和島藩の藩庁となった。
[編集] 天守
三重三階の層塔式天守。当初は望楼式(三重三階)であったが後に現在の形に改築。全体的に清楚な印象があるため、日本の天守の中でも人気が高い。また、現存天守である。
[編集] 沿革
- 天慶4年(941年)警固使・橘遠保が藤原純友の乱の際にこの地に砦を構えたとされる。
- 嘉禎2年(1236年)西園寺公経が宇和島地方を勢力下に置き、砦程度の城を置く。当時は丸串城と呼ばれていた。
- 天文15年(1546年)家藤監物が城主となる。大友氏、長宗我部氏等の侵攻に耐えた。
- 天正3年(1575年)家藤監物が去り、西園寺宣久の居城となる。
- 天正13年(1585年)豊臣秀吉の四国討伐により、伊予国は小早川隆景の所領となる。隆景家臣の持田右京が城代となる。
- 天正15年(1587年)隆景は筑前国に転封となり、代わって大洲城に戸田勝隆が入城。戸田与左衛門が城代となった。
- 文禄4年(1595年)藤堂高虎が宇和郡7万石を与えられ入城。
- 慶長元年(1596年)高虎、大改修に着手。
- 慶長6年(1601年)現在の姿の城が完成。宇和島城と名付けられる。高虎は関ヶ原の戦いの功により前年に国府(後の今治市)に移封となっていたが、この年、城の完成を見て国府に移った。
- 慶長13年(1608年)富田信高が伊勢国より転封し入城。
- 慶長18年(1613年)信高、改易となる。宇和郡は徳川幕府直轄となる。藤堂高虎が代官となり藤堂良勝を城代とした。
- 慶長19年(1614年)伊達政宗の長男(庶子のため嫡子ではない)伊達秀宗が10万石で入封。
- 元和元年(1615年)秀宗、入城。
- 寛文2年(1662年)2代藩主・宗利、老朽化した城の改修に着手。
- 寛文11年(1671年)改修終了。現在の3層3階の天守はこの時再建されたものである。
- 明治4年(1871年)明治政府により城は兵部省に帰属。大阪鎮台の所管となる。
- 明治33年(1900年)頃から櫓・城門などが解体される。
- 昭和9年(1934年)天守・大手門が国宝に指定される。
- 昭和12年(1937年)国の史跡に指定される。
- 昭和20年(1945年)太平洋戦争時、空襲により大手門焼失。
- 昭和24年(1949年)伊達家、天守と城山の大半を宇和島市に寄贈。市の管理下に置かれる。
- 昭和25年(1950年)文化財保護法の制定により天守が重要文化財となる。
- 昭和35年 - 昭和37年(1960年 - 1962年)天守解体修理。