宇都宮公綱
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宇都宮 公綱(うつのみや きんつな、1302年(乾元元年) - 1356年11月12日(正平11年/延文元年10月20日))は鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武将。宇都宮氏第九代当主。父は宇都宮貞綱。母は北条長時の娘。
元弘の乱の1333年1月、北条高時の命を受けて上洛し、摂津国四天王寺にて官軍側の名将・楠木正成と戦った。このとき、正成は公綱より兵力では勝っていたが、公綱の武略を恐れて直接対決を挑もうとはせず、持久戦に持ち込んでいる。公綱もまた、正成の武略を恐れて直接には相対せず、結局勝敗はつかずして引き分けた。その後、千早城攻めなどにも参戦したが、やがて後醍醐天皇の綸旨を受けて官軍側に寝返った。幕府滅亡後の建武の新政下では雑訴決断所の奉行職を務めた。1335年の中先代の乱後に足利尊氏が後醍醐天皇から離反すると、公綱は尊氏軍と戦ったが敗れ、翌年に尊氏に降伏してその家臣となった。しかし尊氏が九州に落ちると再び天皇のもとに帰参する。
その後は北畠顕家のもとで各地を転戦し、顕家の死後も東国における南朝側の中心勢力の一人として活躍し、後村上天皇からも厚い信任を受けた。しかし晩年は不遇だったと言われている。1356年10月20日、55歳で死去した。
正成を恐れさせたほどの武勇を持つ反面、和歌にも優れた才能を発揮し、新続古今和歌集には公綱の作品が修められている。
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