元弘の乱
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元弘の乱(げんこうのらん)は、1331年(元弘元年)に起きた、後醍醐天皇を中心とした勢力による鎌倉幕府討幕運動である。1333年(元弘3年/正慶2年)に鎌倉幕府が滅亡に至るまでの一連の戦乱を含めることも多い。以下では1331年から1333年までの戦乱について述べる。元弘の変(げんこうのへん)とも呼ばれる。
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[編集] 背景
鎌倉時代後期、鎌倉幕府では北条得宗家が権勢を振るっていた。北条一門の知行国が著しく増加する一方で、御家人層では、元寇後も続けられた異国警固番役の負担、元寇の恩賞や訴訟の停滞、貨幣経済の普及、所領分割などによって没落する者も増加していった。幕府は徳政令を発して対応するが、社会的混乱から諸国では悪党の活動が活発化し、幕府は次第に支持を失っていった。
朝廷では、13世紀後半以降、後深草天皇の子孫(持明院統)と亀山天皇の子孫(大覚寺統)の両血統の天皇が交互に即位する両統迭立が行われていた。だが、公家社会の中に支持皇統による派閥が生じるようになるなど混乱を引き起こし、幕府による朝廷の制御を困難にした。
1318年(文保2年)、大覚寺統の後醍醐天皇が即位し、天皇親政を理想に掲げ、鎌倉幕府の打倒を密かに目指していた。1324年(正中元年)の正中の変は六波羅探題によって未然に察知され、後醍醐天皇は幕府に釈明して赦されたものの、側近の日野資朝は佐渡島へ流罪となった。
だが後醍醐天皇は、処分を免れた側近の日野俊基や真言密教の僧文観らと再び倒幕計画を進めた。
[編集] 経過
[編集] 笠置山・赤坂城の戦い
1331年(元弘元年)8月、後醍醐天皇の側近である吉田定房が六波羅探題に倒幕計画を密告し、またも計画は事前に発覚した。六波羅探題は軍勢を御所の中にまで送り、後醍醐天皇は女装して御所を脱出し、比叡山へ向かうと見せかけて山城国笠置山で挙兵した。後醍醐天皇の皇子・護良親王や、河内国の悪党・楠木正成もこれに呼応して、それぞれ大和国の吉野および河内国の下赤坂城で挙兵した。
幕府は大仏貞直、金沢貞冬、足利高氏(後の尊氏)、新田義貞らの討伐軍を差し向けた。9月に笠置山は陥落、次いで吉野も陥落し、楠木軍が守る下赤坂城のみが残った。ここで幕府軍は苦戦を強いられる。楠木軍は城壁に取り付いた幕府軍に対して大木を落としたり、熱湯を浴びせかけたり、予め設けておいた二重塀を落としたりといった奇策を駆使した。だが楠木正成は、長期間の抗戦は不可能であると理解していた。10月、自ら下赤坂城に火をかけて自害したように見せかけ、姿をくらませた。
後醍醐天皇は側近の千種忠顕とともに幕府に捕らえられた。幕府は持明院統の光厳天皇を即位させ、元号を正慶と改めさせるとともに、1332年(元弘2年/正慶元年)3月、日野俊基や北畠具行、先に流罪となっていた日野資朝らを斬罪とし、後醍醐天皇を隠岐島へ配流とした。こうして倒幕運動は鎮圧されたかに見えた。
[編集] 千早城の戦い
護良親王と楠木正成は潜伏して機会を伺っていた。1332年(元弘2年/正慶元年)11月、楠木正成は河内国金剛山の千早城で挙兵し、同月、護良親王も吉野で挙兵して倒幕の令旨を発した。楠木正成は12月に赤坂城を奪回し、1333年(元弘3年/正慶2年)1月には六波羅勢を摂津国天王寺などで撃破した。
幕府は再び大仏家時、名越宗教、大仏高直らが率いる大軍を差し向けた。まず幕府軍は楠木正成の配下の平野将監らが守る上赤坂城へ向かった。上赤坂城の守りは堅く幕府軍も苦戦するが、城の水源を絶ち、平野将監らを降伏させた。同じ頃吉野でも護良親王を破った。
残るは楠木正成がわずかな軍勢で篭城する千早城のみである。だが楠木軍は、鎧を着せた藁人形を囮として矢を射掛けるといった奇策により、再び幕府軍を翻弄した。幕府軍は水源を絶とうとするが、千早城では城中に水源を確保しておりびくともしなかった。さらに楠木軍は一部が打って出て幕府軍を奇襲し、軍旗を奪って城壁に掲げ嘲笑してみせた。楠木軍は90日間にわたって幕府の大軍を相手に戦い抜いた。
そうしている間に、幕府軍が千早城に大軍を貼り付けにしながら落とせずにいるとの報に触発され、各地に倒幕の機運が広がっていった。
[編集] 六波羅攻略
播磨国では赤松則村(円心)が挙兵し、その他の各地でも反乱が起きた。中でも赤松則村は周辺の後醍醐方を糾合し京都へ進撃する勢いであった。このような状況を見て、閏2月、後醍醐天皇は名和長年の働きで隠岐島を脱出し、伯耆国の船上山に入って倒幕の綸旨を天下へ発した。
幕府は船上山を討つため足利高氏、名越高家らの援兵を送り込んだ。しかし、4月27日には名越高家が赤松円心に討たれ、足利高氏は所領のあった丹波国篠村八幡宮で幕府へ反旗を翻す。5月7日、足利高氏は佐々木道誉や赤松則村らと呼応して六波羅探題を攻め落とし、京都を制圧した。北条仲時、北条時益ら六波羅探題の一族郎党は東国へ逃れようとするが、5月9日、近江国の番場蓮華寺で自刃し、光厳天皇、後伏見上皇、花園上皇は捕らえられた。
[編集] 鎌倉攻略
5月8日、新田義貞が上野国生品明神で挙兵した。新田軍は一族や周辺御家人を集めて兵を増やしつつ、利根川を越えて南進した。足利高氏の嫡子千寿王(後の足利義詮)らも合流し、新田軍は数万規模に膨れ上がったと言われる。幕府は北条泰家らの軍勢を迎撃のために向かわせるが、小手指ヶ原の戦いや分倍河原の戦いで敗退し、鎌倉へ追い詰められた。
新田軍は三方から鎌倉を攻撃した。切通しの守りは固く、戦いは一旦は膠着するが、新田軍は稲村ガ崎から鎌倉へ突入した。5月22日、北条高時ら北条一門は東勝寺において滅亡した(東勝寺合戦)。鎮西探題北条英時も、少弐貞経、大友貞宗、島津貞久らに攻められて5月25日に博多で自刃した。
[編集] 影響
後醍醐天皇の討幕運動は遂に成功を見た。後醍醐天皇は京都へ帰還し、元弘の元号を復活させ、念願であった天皇親政である建武の新政を開始する。だが元弘の乱の論功行賞において、後醍醐天皇の側近が優遇されたのに対して、赤松則村をはじめとする多くの武士層が冷遇された。こうしたことが新政への支持を失わせ、足利尊氏の離反と室町幕府の成立へと結びついていく。
[編集] 関連項目
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