北条長時
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北条長時(ほうじょう ながとき、寛喜元年2月27日(1229年3月24日) - 文永元年8月21日(1264年9月12日))は、鎌倉幕府第6代執権(在職 1256年 - 1264年)である。居所から赤橋長時(あかはし ながとき)とも称される。
祖父は北条義時。父は北条重時。妻は北条時盛の娘。子に北条義宗。孫は北条久時。曾孫は鎌倉幕府最後の執権・北条(赤橋)守時。
宝治元年(1247年)に5代執権北条時頼・御家人安達氏らが三浦氏を滅ぼした宝治合戦後、父重時が連署に就任した為、父の後任で、六波羅探題北方に就任、宗尊親王の将軍擁立に当たった。建長8年(1256年)に父が出家し引退した為、連署に叔父北条政村が後任で就任した為、政村の後任として評定衆に加わる。六波羅探題北方は弟北条時茂が就任した。同年11月執権時頼が病で出家すると、時頼の息子北条時宗に執権職を譲る為に一時的に中継ぎとして執権に就任する。文永元年(1264年)7月に病の為、執権職を叔父政村へ譲り出家、同年8月に死去。
NHK大河ドラマ北条時宗では、後の内管領平頼綱に暗殺されたという設定になっているが創作であり、史実では病死である。
[編集] 官職位階履歴
※日付=旧暦
- 1245年(寛元3)3月29日、従五位下に叙し、左近衛将監に任官。
- 1247年(宝治元)7月18日、幕府の六波羅探題北方と就る。
- 1256年(建長8)3月29日、3月20日、六波羅探題退任。月日不詳、評定衆と就る。7月20日、武蔵守に転任。11月22日、執権と就る。
- 1258年(正嘉2)12月14日、従五位上に昇叙。武蔵守如元。
- 1264年(文永元)7月3日、出家。8月21日、卒去。享年36。法名:専阿。墓所は神奈川県鎌倉市扇ガ谷の泉谷山浄光明寺。
[編集] 演じた俳優
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