小川年安
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小川 年安(おがわ としやす、 1911年1月1日 - 1937年)は、プロ野球黎明期の選手、阪神創立時の3番打者、正捕手。戦火に散華した幻の名選手の一人。
[編集] 来歴・人物
広島県出身、出生地が県内のどこかは不明。1927年、前年春選抜を制した広陵中学(現・広陵高校)の捕手として、春選抜は田部武雄(のち明大、巨人 野球殿堂)と夏の選手権は八十川胖(明大、八十川ボーク事件で有名)とバッテリーを組み、更に打線も山城健三(立大)、三浦芳郎(明大)、中尾長(明大、セネタース)らを揃えて広陵野球部史上最強チームと言われたが、連覇を狙った春は小川正太郎の和歌山中学に、夏も水原茂(慶大・巨人他 野球殿堂)らのいた高松商業に決勝で敗れた。(八十川は2回戦、対敦賀商業戦で史上二人目のノーヒットノーランを記録)
翌1928年も春夏連続出場したが、いずれも初戦敗退。続いて翌1929年春は、中尾、佐々木美利、野村実(名古屋軍)に、のち慶大・阪神と同僚となる平桝敏男(甲子園では補欠)らがいた強力打線だったが、決勝で第一神港商業にまたしても敗れ準優勝。(第一神港商業は翌年も優勝し史上初の春連覇) 小川最後の夏、広陵は実業家に招待されハワイ遠征。小川は夏の大会出場を嘆願したが聞き入られず遠征に参加。約2ヶ月(当時は船で片道10日)の間、有料試合を行う。更に帰国が新学期に間に合わず問題となり翌年の選抜は選に洩れた。(同年夏、広島予選を勝ち抜いた広島商業が全国制覇、石本秀一(のち阪神、広島他監督 野球殿堂)率いる広島商業は、翌1930年も灰山元治(ライオン軍他)、鶴岡一人(南海 野球殿堂)らを擁して夏連覇、更に翌1931年の春も制して史上初の夏春連覇を達成した)結局小川は5季連続甲子園出場して3度準優勝、という珍しい記録を持つ。名捕手として知られるが、中学時代は投手として甲子園でも数試合登板がある。
1930年慶應義塾大学に進学。強打の4番としてスター選手となる。1931年、初めて来日したレフティー・グローブ、ルー・ゲーリッグ、ら米大リーグ選抜チームと対戦する日本選抜チームの捕手にファン投票で選ばれ、正捕手を務めた。
1935年12月20日、この年創設された大阪タイガースと契約、入団、背番号2。翌1936年、プロ野球リーグが開幕、この年主に3番を任され、チームトップの打率.342を記録。誰も打てなかった巨人沢村栄治(野球殿堂)のホップする剛速球を、大根切り打法で攻略するなど活躍した。
同年秋招集され、翌1937年(昭和12年)1月、東京中野の第一電信連隊へ入隊。のち中国で戦死。(と記録には残るが没日ほか詳細は不明) 享年26。
プロ野球に残した記録は実働1年、出場42試合 打数152 安打42 打点30 本塁打0 盗塁8 犠打5 四死球30 三振14 打率.342 であった。
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