尾崎放哉
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尾崎 放哉(おざき ほうさい、1885年(明治18年)1月20日 - 1926年(大正15年)4月7日)は、日本の俳人。本名は秀雄。
目次 |
[編集] 経歴
鳥取県鳥取市立川町に鳥取県士族で鳥取地方裁判所の書記官・尾崎信三の次男として生まれる。1902年(明治35年)第一高等学校(一高)入学。1905年(明治38年)9月より東京帝国大学法学部入学。なお東大在学中にいとこにあたる最愛の女性に求婚も、この女性の実兄で医師の男性より「近親婚は医学的見地から歓迎しない」旨反対されこの女性とは引き裂かれる。しかし、それは放哉の晩年まで続く転落・薄幸の連続だった人生の第一章にすぎなかった。
1909年(明治42年)東大卒業。一高時代より俳句を始め当初は号を芳哉と名乗り、後に放哉と改め、『ほとゝぎす』などに投句。のち、一高時代の先輩である荻原井泉水の主宰する『層雲』の門人となる。同年、東洋通信社に入社。しかし入社わずか1ヶ月で退社。
1911年(明治44年)東洋生命(現・朝日生命)に入社。同年結婚。1923年(大正12年)朝鮮火災海上保険会社の創設にかかわり支配人として、京城に赴任。入社の際の条件であった禁酒を破り免職となる。借金をかかえ新京(現・長春)やハルピンで事業を興すが失敗し、肋膜炎を患い帰国。帰国後、妻より離縁される。
独身となった直後京都の一燈園に身を投じるがすぐに出奔し、知恩院・神戸の須磨寺、福井県小浜市の常高寺などの寺男などを務めたが酒癖の悪さで放逐されたり寺の破産などの不遇に遭いながら転々とする。
晩年は、井泉水の紹介で1925年(大正14年)8月小豆島土庄町の王子山蓮華院西光寺奥ノ院南郷庵の庵主となる。ここで落ち着き、俳句の創作に没頭したが、結核に罹患する。翌1926年(大正15年)4月7日結核が悪化し他界。享年42。
[編集] 作家論
季語を含めない自由律俳句の代表的俳人として種田山頭火と並び称される。旅を続けて句を詠んだ動の山頭火に対し、放哉の作風は静のなかに無常観と諧謔性、そして洒脱味に裏打ちされた俳句を作った。性格は偏向的であり、自身が東京帝国大学法学部を出ていながら、他の法学部卒業生を嫌うという矛盾的性格を持ち、また酒を飲むとよく暴れ、周囲を困らせたという。唯一の句集として、死後、井泉水編『大空〔たいくう〕』(春秋社、1926年6月)が刊行された。
[編集] 代表句
有名な句を以下に挙げる。
- 咳をしても一人
- 足のうら洗えば白くなる
- 肉がやせてくる太い骨である
- いれものがない両手でうける
- 考えごとをしている田螺が歩いている
- 春の山の後ろから煙が出だした(辞世)
[編集] 関連項目
- 小豆島尾崎放哉記念館
- 俳人の一覧