川越城
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通称 |
河越城、初雁城、霧隠城 |
城郭構造 |
平城 |
天守構造 |
なし |
築城主 | |
築城年 | |
主な改修者 |
松平(長沢)信綱 |
主な城主 | |
廃城年 |
1870年頃か |
遺構 |
富士見櫓、堀・土塁・御殿の一部・移築物3棟 |
位置 |
川越城(かわごえじょう)は埼玉県川越市にあった城。別名、河越城、初雁城、霧隠城。
目次 |
[編集] 概要
現在、嘉永元年(1848年)に建られた本丸御殿の一部が現存するほか、二の丸跡に市立博物館がある。また、埼玉県立川越高等学校の近くに富士見櫓跡があるが、現在は小さな祠があるのみである。近年富士見櫓のものと思われる詳細な図面が見つかり復元へ一歩近づいたが図面によると二層であり、どのように建っていたか現在調査中である。埼玉県指定史跡。童謡「通りゃんせ」はこの辺りが発祥の地ではないかと言われている。また遺構は御殿と一部の土塁そして市内三久保町の成田山旧客殿、加須市むさしの村武芸館、東松山市葛袋のN家の門計3棟が移築されていることが市立博物館発行の資料にあるが、加須市のものは残念ながら取り壊されてない。
藩政時代は、松平信綱(知恵伊豆)や柳沢吉保などのように幕府の要職についた歴代藩主もいたが、建造物は至って質素なもので富士見櫓(または御三階櫓)をして天守の代用としているケースが多く、水戸城、佐倉城、笠間城、忍城、古河城、関宿城などもそうであり、川越城もその例外でない。川越城には富士見櫓のほか、菱櫓、二の丸には虎櫓があったのみである。 川越城主については、川越藩のリンク先に詳しいが、掻い摘んでみると、酒井家→酒井家→ 堀田家→大河内松平家→柳沢家→秋元家→越前松平家→松井松平家で明治維新を迎えた。なお川越藩で最大の石高を領したのは越前松平家の17万石である。
[編集] 歴史
- 川越城は、武蔵国が扇谷上杉氏と古河公方足利氏の勢力の接触点であったため、長禄元年(1457年)に足利氏の勢力に対抗する目的で上杉持朝が家老の太田道真、道灌父子に命じ、道灌かがりと呼ばれる手法で築かれる。
- 戦国時代には後北条氏の武蔵国支配の拠点となった。
- 江戸時代には川越藩が置かれ、川越城を中心に「小江戸」と呼ばれる城下町が形成された。商いは当時発達していた水運を利用して江戸に運ばれた。蔵の街となったのは明治になり、大火に見舞われたため耐火造りの商家がふえたからである。
- 明治維新後に解体され、1848年に建造された本丸御殿の一部と大広間のみを残した。
- 近くには天海僧正ゆかりの喜多院がある。幕府の庇護が篤く寛永15年(1638年)の大火で焼失した時は江戸城の建物が一部移築された。客殿には3代将軍家光誕生の間と言われているものである。家光の乳母春日の局の間も移築されている。(国・重要文化財)
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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