平和相互銀行
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
平和相互銀行(へいわそうごぎんこう)は、かつて存在した相互銀行。1986年10月1日に住友銀行に吸収合併された。
目次 |
[編集] 創業と乱脈経営
- 平和相互銀行は、戦前東北林業という名の殖産会社を終戦直後の屑鉄売買で財を成した小宮山英蔵が買収、社名を平和殖産無尽と改め看做無尽の日掛金融に業容を転換した。1951年の相互銀行法(法律第199号)の制定で相互銀行に転換、平和相互銀行となった。
- 相互銀行転換後暫くして、夜9時までの窓口営業を実施(後に行政指導により夜7時までの営業に短縮)。当時、同行の顧客の多くが水商売で営業が夜遅くになることに加え、法的に午後3時までの営業を義務付けていたことに着目、大蔵省に直談判して夜間の窓口営業を認めさせたと言われている(加えて英蔵自身が典型的な夜更かしだったという個人的な事情もあったらしい)。
- こうした夜間の窓口営業に加え、駅前から住宅地まで首都圏に店舗網を整備し、更に都市銀行各行と提携しATMではどの銀行のキャッシュカードでも使用可能とするなど利用者の利便性を重視した。このため最盛期には店舗数102店・資金量1兆1500億円相互銀行業界第6位の大手に位置するまでになった。
- その一方で、英蔵は私的な利益を図るため関連会社を次々と設立・買収。その中には総武流山電鉄や後の内紛でクローズアップされることとなる太平洋クラブなどがある。また、英蔵の私的な側近である"四天王"も平和相銀と密接な関係を持つようになり、こうした関連会社や関係会社が経営不振であったとしても融資が続けられるなど、後に明らかとなる放漫かつ乱脈経営の伏流が既に見えていた。
- 更に"四天王"との関係から、政治家や総会屋・右翼なども平和相銀との関係を持つようになり、「闇の紳士の貯金箱」とまで噂される様になった。
[編集] 英蔵の死去と経営陣の内紛
- 1979年に創業者の小宮山英蔵が死亡すると、グループの後継の座を巡って英蔵の娘婿だった池田勉(専務)と英蔵の長男である英一(取締役から常務)との間で対立が生じる。"四天王"を排除して実権を握ろうとした池田に対し、英一は監査役の伊坂重昭の後ろ盾を得て池田の失脚に成功する。この過程で英蔵の後継社長だった精一(英蔵の実弟)も会長へと棚上げされて、やがて会長も辞任に追い込まれる。
- 伊坂は元東京地検特捜部検事であり、在官中は「カミソリ伊坂」の異名を取るほどに俊敏を振るい、将来の検事総長候補のひとりと言われた。1963年3月に36歳で退官し、その間脱税王・森脇将光の顧問弁護士として、吹原産業事件の弁護を引き受けている。1970年11月、元大阪高検検事長・河井信太郎が小宮山にと紹介したのがきっかけに、平和相銀の顧問弁護士となる。以後、伊坂は法曹経験を生かして平和相銀にからむトラブルを次々に処理し、英蔵の信頼を高め、経営を掌握していったとされる。
- 池田を失脚させて一時は経営の実権を握るかに見えた英一だったが、やがて伊坂や稲井田隆社長らを中心とする新経営陣との確執が表面化、結果として英一は常務を解任される。
[編集] 数々の裏工作
- そうした中、関連会社太平洋クラブが1973年3月より募集していた、会員制レジャークラブの会員権預かり保証金の償還請求期限が、1983年3月より始まろうとしていた。しかし、経営不振から償還原資は無く、このまま預かり保証金の償還ができなければ、信用不安が平相銀にまで広がり、取り付け騒ぎになる恐れが出てきた。1982年11月、伊坂らは、太平洋クラブの資産を売却し償還資金とすることを計画し、同クラブが所有している神戸市内の山林、評価担保額にして42億円相当を売却することを決定した。まずA不動産会社を仲介料3億6000万円で仲介させ、B不動産会社とC土木会社に60億円で売却し、この土地購入資金としてB・C両社に総額116億2000万円の融資をした。つまり、42億円の価値しかない土地を60億円で取引するという話に平相銀は116億円の融資をしたことになる。当然、この融資は不良債権化し平和相銀の経営を圧迫した。なお、この資金の一部は闇社会に流れたとされる。
- 1983年には、伊坂らは鹿児島県の無人島を防衛庁のレーダ基地として売却することを計画し、大物右翼の豊田一夫に政界工作を依頼し総額20億円を提供した。この資金は20人近い自民党議員に渡ったとされるが、結局レーダ基地は建設されることはなかった。
- こうした一連の工作は、平相銀の経営改善には何の効果も持たず、いたずらに資金流失を招いただけであった。
[編集] 金屏風事件
- 1985年8月、伊坂らと対立する平和相銀創業一族が、所有していた株(全株式の33.5%)を旧川崎財閥系の資産管理会社「川崎定徳」社長・佐藤茂に80億円で売却した。この平相銀株の購入原資は、イトマンファイナンスより融資されていた。同社は住友銀行系中堅商社イトマンの関連会社で、当時の社長は元住友銀行常務・河村良彦であり、河村は住友銀行会長磯田一郎の腹心であった。
- 株買戻しで焦る伊坂らに、竹下登の秘書・青木伊平の紹介で、真部俊生・八重洲画廊社長から“「金蒔絵時代行列」という金屏風を40億円で購入したら、株買戻しの取引が可能になる”という話が持ちかけられた。後の鑑定で金屏風は多く見積もっても5億円、一説には8000万円の評価額でしかなかったという。それでも伊坂ら平相銀経営陣は、株の買戻しの資金として、伊坂が実質的に経営していた経営コンサルタント会社に購入代金41億円を融資し、金屏風を購入した。にもかかわらず結局、株の買い戻しはできなかった。その後、金屏風の代金は、これまた政界に流されたという噂がたった。
[編集] 平相銀解体と住銀への吸収合併
- 伊坂らの奔走もむなしく、平相銀の解体は迫っていた。金屏風を巡る取引の最中、1985年8月、大蔵省銀行局長吉田正輝(奇しくも後に乱脈経営で破綻する兵庫銀行最後の頭取)の陣頭指揮のもとに、10人の検査官を動員、異例ともいえる5ヶ月間にわたる長期検査を実施した。この検査で、融資額半分を占める約5千億円が回収不能の不良債権と判明する。これが報道されると、信用不安により当時1兆2000億円だった預金が瞬く間に8000億まで減少した。
- 1985年12月、伊坂系の稲井田社長が降格し、大蔵省OBだった田代一正会長が社長に就任。これをきっかけに事実上大蔵省管理となり、1986年2月、伊坂も監査役を辞任した。この間、大蔵省及び住友銀行の間で救済合併が準備され、1986年10月1日住友銀行に吸収合併された。
- その後「住友残酷物語」と呼ばれる旧平和相互銀行行員の大粛清が行われ、合併から半年でほぼ全行員がいなくなった。なお旧平和相互銀行本店は1990年代まで「第二東京営業部」として存置され、同行の店舗は店番が800・900番台として区別されていた。
- 関西系の住友銀行にとり、平相銀の吸収合併は首都圏店舗を一挙に増やし大きなメリットがあるとされた。しかし、同時に平相銀の不良債権をも抱え込むことになり、低下した収益力回復を目指し、がむしゃらな営業路線をひた走る。この合併で、預金量順位を逆転された富士銀行も巻き返しを図り、熾烈な「FS戦争」が展開される中、バブル経済に突入する。
[編集] 関係者のその後
- 1986年7月から8月にかけ東京地検特捜部は平相銀事件の捜査を実施。前述した神戸市内の山林売買融資について特別背任にあたるとして、1986年7月6日、伊坂ら経営陣4人を逮捕、7月26日に起訴した。伊坂は、最後まで争ったが逮捕から12年後の1998年、最高裁で上告が棄却され懲役3年6ヶ月の実刑が確定、すでに71歳になっていた。その1年後体調を崩し八王子医療刑務所に移り刑の執行を停止されるほど病状が悪化、2000年4月10日病院で死亡した。
- 1987年11月、竹下登は内閣総理大臣に就任するも、翌年リクルート事件が発覚し、青木は執拗な取調べを東京地検から受ける。1989年4月25日竹下は責任をとって退陣を表明、翌4月26日青木は自殺した。
- 河村良彦は、イトマン事件における特別背任罪で1991年7月23日逮捕された。保釈中の1999年4月、大阪府知事選挙に出馬するなど奇行が目立ったが、2004年10月7日に懲役7年の実刑判決が確定した。また磯田一郎はこのイトマン事件により1990年10月7日住友銀行会長を辞任、1993年12月3日心不全で死去した。晩年は老人ホームで孤独に過ごしたという。
[編集] 余談
- 平相銀のオーナー小宮山は、パリーグのライオンズ球団(太平洋クラブ→クラウンライター)の資金面でのオーナーであった。同球団が短期間で西武に売却されたのは、平相銀の経営悪化も関係している。
- 「秘密戦隊ゴレンジャー」の第51話「青いニセ札づくり!夕陽のガンマン」でガンマン仮面が襲う銀行は、平和相互銀行である。