弘前城
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弘前城 | |
通称 |
鷹岡城 |
城郭構造 |
梯郭式平山城 |
天守構造 |
独立式層塔型 |
築城主 |
津軽為信・信枚 |
築城年 |
1611年 |
主な改修者 |
津軽寧親 |
主な城主 |
津軽氏 |
廃城年 |
1871年 |
遺構 |
現存天守・櫓・門 |
位置 |
弘前城(ひろさきじょう)は日本の城。所在地は青森県弘前市。別名・鷹岡城。国指定史跡。
目次 |
[編集] 概要
津軽平野に位置し、城郭の形式は梯郭式平山城である。本丸、二の丸、三の丸、四の丸、北の郭、西の郭の六郭から構成されている。堀、石垣、土塁等城郭の全容がほぼ廃城時の原形をとどめている貴重な城である。天守は3層3階で江戸時代後期に再建され現存しており、櫓として二の丸に三層の辰巳櫓・丑寅櫓・未申櫓の3棟、城門(櫓門)として三の丸追手門・三の丸東門・二の丸南門・二の丸東門・北の郭亀甲門の5棟がそれぞれ築城時の姿で現存し、全て国の重要文化財に指定されている。
江戸時代には弘前藩津軽氏の居城として、津軽地方の政治経済の中心となった。現在は弘前公園(鷹揚公園)として観光名所となり、弘前市により所有・管理されている。天守と桜のコントラストが美しく、日本屈指の桜の名所として日本さくら名所100選に選ばれている。
[編集] 沿革
- 1590年(天正18年)南部氏に臣従していた大浦為信は、小田原攻めにあった豊臣秀吉より南部氏に先駆けて45,000石の所領安堵の朱印状を受ける。大浦を津軽と改姓。
- 1594年(文禄3年)為信、堀越城(弘前市堀越)を築き大浦城より移る。しかし、軍事に不向きであることを理由に新城の候補を鷹岡(現在の弘前城の地)に選定。
- 1600年(慶長5年)為信は関ヶ原の戦いで東軍に付き、徳川家康より2,000石の加増を受け47,000石の弘前藩が成立。
- 1603年(慶長8年)為信、鷹岡に築城を開始。
- 1604年(慶長9年)為信、京都にて客死し、築城は中断する。
- 1609年(慶長14年)2代信枚(信牧)、築城を再開。堀越城、大浦城の遺材を使用し急ピッチでの築城を行う。
- 1611年(慶長16年)僅か1年1ヶ月で弘前城落成。東西612m、南北947m、総面積385,200m²に及ぶ、47,000石には過ぎた偉容を誇った。
- 1627年(寛永4年)落雷により5層5階の天守を焼失。以後、200年近く天守の無い時代が続いた。
- 1810年(文化7年)9代藩主津軽寧親、3層櫓を新築すると幕府に願い出て、本丸に現存の3層天守が完成。
- 1871年(明治4年)廃藩置県により、廃城となる。東北鎮台の分営を置く。
- 1873年(明治6年)東北鎮台の分営を廃止。この後、本丸御殿や武芸所等が取り壊される。
- 1894年(明治27年)旧藩主津軽氏が城跡を市民公園として一般開放するため、城地の貸与を願い出て許可される。
- 1895年(明治28年)弘前公園として市民に一般開放される。
- 1898年(明治31年)三の丸が陸軍兵器支廠(のち第八師団兵器部)用地となる。
- 1903年(明治36年)これ以降桜が植えられ、桜の名所となる。
- 1906年(明治39年)北の郭・子の櫓と西の郭・未申櫓の櫓2棟が焼失。
- 1908年(明治41年)皇太子(後の大正天皇)が、公園を「鷹揚園」と命名する。
- 1937年(昭和12年)現存建造物群(三の丸東門除く)が旧・国宝に指定される。
- 1950年(昭和25年)文化財保護法の制定により、現存建造物群(三の丸東門除く)は重要文化財となる。
- 1952年(昭和27年)国の史跡に指定される。
- 1953年(昭和28年)三の丸東門が国の重要文化財に指定され、現存建造物の全てが国の重要文化財となる。