忠犬ハチ公
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忠犬ハチ公(ちゅうけんはちこう、1923年11月10日 - 1935年3月8日)は、秋田県大館市出身の秋田犬。名前はハチ。主人が亡くなった後も駅前で帰りを待ち続けた「忠犬」として有名になった。
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[編集] 生涯
1924年から東京帝国大学(現・東京大学)農学部の教授、上野英三郎に飼われることになった。上野の存命中は、玄関先や門の前で上野を見送り、時には最寄駅である渋谷駅まで送り迎えすることもあった。上野の自宅は、現東急百貨店本店付近と言われている。
1925年5月に上野が急死した後も、毎日渋谷駅前で主人の帰りを待ち続けたとされ、東京朝日新聞の記事により世間一般に知れわたった。主人を慕うハチの一途な姿は人々に感銘を与え、「忠犬」と呼ばれるようになった。
1935年3月、フィラリアにより、渋谷川の稲荷橋付近の路地で死去。剥製は国立科学博物館に保存されている。 なお、ハチ公の「ハチ」は、漢数字の「八」の字が末広がりで大地を踏ん張っているようなので付けられたようである。
[編集] 銅像
1934年4月、渋谷駅前に銅像が建てられ、除幕式にはハチ自身も出席した。これは、彫塑家の安藤照がハチ公像を作っている最中に、上野家にハチのことを託されたと称する老人が現れ、ハチ公像を建てるために絵葉書を売り始めたからである。そのため、それより先に銅像を作らなければならなくなり、ハチが生きているうちに銅像が建てられたのである。
ハチの銅像は第二次世界大戦中に金属資源不足により供出され、現在のものは1948年8月に再建されたものである。像のある渋谷駅の改札口の一つは「ハチ公口」と呼ばれている。再建当時は駅前広場の中央に鎮座し北を向いていたが、1989年5月に駅前広場が拡張された際に場所移動し、同時に東(ハチ公口方向)向きに修正された。
また、生地の大館市の大館駅前にも同型の銅像が建っており、同駅ホーム内には「JRハチ公神社」がある。
[編集] 忠犬説に対する異論
毎日決まった時間に渋谷駅に現れる本当の理由は、駅前の屋台の焼き鳥屋からもらえるエサが目当てであったという説もある。この説は、ハチ公の死体を解剖した際に胃の中に細長い焼き鳥の串が数本突き刺さっていたということからも、あながち否定はできない説である。
また、主人がいつ帰ってきてもすぐ見つけられるように、渋谷駅の弁当売りが差し出した弁当に目もくれなかったというエピソードもあるが、それは当時の弁当には犬の好物である肉がほとんど入っていなかったからではないかという説もある。
当時は故意にハチ公を誹謗中傷する心無い人もあったと言われており[要出典]、真相は不明である。どちらにせよイヌは基本的に飼い主によくなつき、敬愛を示すことがよく知られている動物なので、ハチ公の例も完全に打算によるものであると断言することは出来ない。
[編集] 経歴
- 1923年11月10日、秋田県大館市大子内の斉藤義一宅で生まれる。父は大子内号、母は胡麻号。
- 上野は秋田犬の子犬を飼いたいと思っており、ハチは世間瀬という人物によって上野のもとへ届けられた。
- 1924年1月14日、米俵に入れられ、汽車で大館駅を出発。20時間後、上野駅に到着。
- 上野宅でジョンとS(エス)という他の犬たちと共に飼われた。ポインター種のジョンは、ハチの面倒見がよかった。
- 1925年5月21日、上野英三郎が大学で急逝。いくら待っても帰って来ない主人のことを思ってか、ハチは3日間何も食べなかった。
- 1925年5月25日、上野の通夜が行われる。上野が死んだことが解らないハチは、ジョンとSと一緒に上野を渋谷駅まで迎えに行った。
- 上野夫人、八重の親戚である日本橋伝馬町の呉服屋へ預けられるが、客に飛びついてしまうため、浅草の高橋千吉宅へ預けられた。
- ハチのことで、高橋と近所の住人との間に対立が起こったため、ハチは再び上野宅へ戻った。しかし近所の畑で走り回り、作物を駄目にしてしまうので、富ヶ谷に住んでいる上野宅出入りの植木職人、小林菊三郎のもとへ行った。
- 1927年秋、小林菊三郎宅へ行った。渋谷駅に程近い小林宅に移って以降、上野が帰宅していた時間に、ハチが渋谷駅でよく見かけられるようになった。
- 1932年、上野を迎えに来るハチのことを知っていた日本犬保存会の斉藤弘吉が、渋谷駅で邪険に扱われているハチを哀れみ、ハチのことを東京朝日新聞に寄稿した。これが「いとしや老犬物語」として新聞に載り、有名になったハチは渋谷駅の人々からかわいがられるようになり、これ以降、ハチ公と呼ばれるようになった。
- 1933年ごろ、斉藤と親しい彫塑家の安藤照がハチの話に感動し、斉藤に像を作りたいと話し、それを知った小林は、モデルとなるハチを連れて初台にある安藤のアトリエに毎日通った。
- 1934年1月、忠犬ハチ公銅像建設趣意書が作られ、銅像建設の募金が始まった。
- 1934年4月、渋谷駅前にハチ公像が建立される(作:安藤照)。除幕式には300人もの著名人が参加した。
- 1934年5月10日、安藤によって鋳造の忠犬ハチ公臥像が作られ、天皇皇后に献上された。
- 1935年3月8日午前6時過ぎ、ハチは普段行かない駅の反対側の稲荷橋近くにある、滝沢酒店北側路地入り口で死去。享年11。
- ハチは初めの飼い主の上野と同じ青山霊園に葬られ、亡骸は本田晋により剥製とされた。
[編集] 死後
- 1935年7月8日、渋谷のハチ公像と同じ型で作られた銅像が秋田の大館にも建つ。
- 1937年、尋常小学校2年生の修身の授業の教科書に「恩ヲ忘レルナ」というハチの話が載る。
- 1944年、太平洋戦争が激化し、民間からも金属を回収することになり、ハチ公像も戦地に赴くことになってしまう。
- 1948年8月、安藤照の息子、安藤士によって、渋谷のハチ公像が再建される。
- 1987年10月、松竹映画『ハチ公物語』が公開される。
- 1987年11月、大館のハチ公像が再建される。
- 2003年10月12日、ハチ公の生家前に、生誕80周年記念の石碑が建立される。
- 2006年、日本テレビの「ドラマコンプレックス」において、『伝説の秋田犬ハチ』のタイトルでハチ公のエピソードが2時間ドラマとして放送される。
[編集] 関連項目
- 渋谷駅ハチ公口
- ハチ公物語
- グレーフライアーズ・ボビー
- 奈良明子(忠犬ハチ公のふるさと大館市親善大使)
- 宮脇俊三(「昭和八年 澁谷驛」など)
[編集] リンク
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